銀座線にのって上野広小路へ。夏の夜の国立西洋美術館。

霞が関から直帰の日は、虎ノ門から田村町の交差点に向かって歩くのがいつものおたのしみなのだけれども(目的地はたいてい田村町キムラヤ)、今日は昨日よりは涼しいし、雨も降っていないし、なによりも明日からは三連休だ……というわけで、めずらしく気が向いて、ちょいと足をのばしたくなった。


虎ノ門から意気揚々と銀座線にのって、上野広小路で下車。松坂屋の「銀サロン」の閉店にはまだ間がある、と、イソイソとエスカレーターで7階に突進。「銀サロン」で「ライトランチ1050円」というのを食べて、早めの夕食とする。日没間際の浅草方面の空を眺めて、そういえば浅草松屋で古本市が開催中だったなあということを思いつつ、スクッと立ち上がり、1階まで階段で下る。たまにしか来る機会はないけれども、上野松坂屋はいつもたのしい。さらに、このところ内田魯庵を強化していたので、魯庵の絶筆「下谷広小路」を思い出して、気分はさらに上々なのだった。

 東京を縦貫するバックボーンは南端の銀座を受けて北端は上野の聖丘[サクレッド・ヒル]を背負う江戸時代からの広小路[ブールヴァール]である。広小路と称する町は浅草に両国に中橋に其の他にも有ろうが、祖師は日蓮に奪われ大師は弘法に奪わるの格で、全国に知られているのは上野を背景とする下谷の広小路である。此の広小路に王者の如く君臨するは松坂屋の鉅観で、高架線御徒町の停車場に下車すると堂々十層楼の松坂屋の新館はプラットフォームの前面に一大城廓の如く聳えている。
 此の松坂屋から差渡し数丁、車坂の三間町に今でも有る名代の質屋佐野屋の前の小さな家で私は生れた。………


内田魯庵下谷広小路」冒頭より)


小村雪岱画《湯島天神裏坂》、久保田金僊編『下谷上野』(松坂屋発行、昭和4年4月1日)より。魯庵の「下谷広小路」の初出である『下谷上野』は、上野松坂屋の新館落成を記念して発行された私家版。この雪岱は久保田万太郎の「上野界隈」の挿絵で、『大東京繁昌記』所収「雷門以北」と同様に、万太郎と雪岱の名コンビを見ることができるのだった。


下谷上野』の内容は、内田魯庵下谷広小路」、北原白秋「雪の上野」「不忍の晩涼」(詩)、久保田万太郎「上野界隈」、笹川臨風下谷鳶」、三田村鳶魚「何時も通りに」、伊藤松宇「俳句に忍ぶ上野の名残」、野崎左文「狂歌」、岡田三面子「下谷上野に関する古川柳」。大正10年発行の資生堂私家版の『銀座』の下谷版といった趣で、資生堂の『銀座』と合わせて好きな本。いずれも、企業文化と東京、という点で非常に興味深いのだけれども、資生堂の『銀座』に魯庵が登場していないのはいかにも不可解なのだった。この『下谷上野』は古書展でしょっちゅう見かける。わたしの手持ちのは200円で買った裸本で、きれいな本も欲しいなあと思っているけれども、あまりにもひんぱんに見かけるのでかえって機会を逸している。





《銀サロン 新装成る上野松坂屋中二階の瀟洒な喫茶室 松竹キネマの久原良子さん・小櫻葉子さん・高杉早苗さん》、松坂屋の広報誌である「新装」昭和10年10月1日発行号に掲載のグラビア。以前「新装」に夢中になっていたことがあって(id:foujita:20080406)、このグラビアが妙に心に残っていた。「銀サロン」という名称がいまでも上野松坂屋の食堂の名称として健在だったと知ったときは嬉しかった。いざ出かけてみたら、その古きデパートの食堂という雰囲気に妙にくつろいでしまうものがあって、とたんに愛着たっぷり。「銀サロン」よ、永遠なれ! と心から思う。「中二階の瀟洒な喫茶室」だった当時の銀サロンは、あのあたりだったのかなと、階段をくだって、中二階が向こうに見えるたびにいつも思う。




ついでに、こちらは《銀座松坂屋の八階である。日本で初めてのオープン設備を誇る「星の食堂[サロン・エトワル]」――お台場越しの潮風が眺望絶佳の窓を通して》、「新装」昭和10年8月1日発行号のグラビア。少女は高峰秀子。昭和6年8月封切の『東京の合唱』のちょうど4年後。


「新装」の編集にあたっていたのが大江良太郎で、遺著『家 久保田万太郎先生と私』(青蛙房、昭和50年11月15日)に、

 世の中が右寄りに動いても、まだ二・二六事件勃発の一年前、東京にオリンピック招聘の噂が立ちそめた。それに備えて銀座松坂屋の拡張が話題にのぼり、準備委員会が持たれたりした。店舗を広めるには、新客層の開拓に努めなければならない。そんなことで、贈呈用の宣伝誌刊行が決まり、“新装”が誕生したのである。
 上野松坂屋に宣伝部を置き、その担当者の一員に私も任命された。“新装”の創刊号以来、欠かさず久保田先生から俳句を頂いて載せた。“わかれじも以後”の諸句が、それである。書庫から合本を取りだし、頁を繰ってみたら、第一号に「捨つべきものは弓矢なりけりとや」の前書を持つ、
 ひ さ び さ に 角 帯 し め し 袴 か な
 の句が出ている。日暮里渡辺町を畳んで、三田へ転居しようと踏ん切りをつけるに当り、家庭に雲の影を流した身を顧み、先生、勤め人生活の整理を、ふと考えた日があったかも知れない。

というふうに回想されている。大江良太郎は、慶應義塾小山内薫に師事したあと、昭和初年から16年まで松坂屋勤務。入社時の宣伝部長が、上記『下谷上野』の編者としてクレジットされている久保田金僊で、久保田米斎の弟。舞踊劇の舞台装置などをしていた。多分に演劇色の強い職場だったようだ。





鈴本演芸場を横目に(下席の夜の部が待ち遠しい!)、上野の山に向かって歩を進めて、坂道をズンズンとあがる。今日のお目当ては国立西洋美術館の常設展示なのだった。閉館の8時まで、駆け足でめぐって、いつもながらにたいそう満喫であった。


国立西洋美術館は去年夏のコロ―展(深い考えもなく出かけてみたらあまりに素晴らしくてびっくりだった)以来、なんやかやで行き損ねてしまっていた。1年ぶりに来てみると、無事に改装工事は終了していて、もとのとおりにだだっぴろい展示室を「ああ、時間が足りないッ」とやきもちしつつ、駆け足でめぐって、前々から好きな絵をピンポイント式に見てゆくというふうに、開館の8時までの時間を過ごす。気持ちがスーッとして、梅雨のあとの猛暑でこのところなにかとクサクサしていたので、絶好の気晴らしになった。ただ、西洋美術館での前々からのおたのしみだったワイヤーメッシュの椅子がなくなっていたのはちと残念であった。




アンリ・ファンタン=ラトゥール《花の果物、ワイン容れのある生物》1865年。国立西洋美術館の常設展示でいつも好きな絵。




美術館のあとは、カルメン上演中の東京文化劇場を横目にふたたび坂道をくだり、上野アトレの明正堂書店で文庫本を買う。氏原忠夫のカバー目当てに、上野に来るたびに明正堂で文庫本を買っている。今日は、高浜虚子『柿二つ』(講談社文芸文庫)を買った。虚子そのものというよりは、富士正晴著『高浜虚子』(角川書店、昭和53年10月)の参考文献として読むのだった。と、喫茶店に寄り道して、ウィンナコーヒーを飲みながらさっそく読み始めて、キリのよいところで、スクッと立ち上がって家に帰る。明日から三連休だと上機嫌で家路につく。




小絲源太郎『随筆集 冬の虹』(朝日新聞社、昭和23年12月15日)、著者自装。上野といえば小絲源太郎。先日のとある古書展で特に買いたいものが見当たらず、手ぶらで帰るのもむなしいので、300円だか400円だかで買った本。「いとう句会」つながりということで、小絲源太郎は前々から気にはなりつつも機会を逸していたので、よい機会。というわけで、やはり古書展には行くものだなと思う。と、その直後、新刊文庫でガバッと買った森銑三『落葉籠 下』(中公文庫、2009年6月)に小絲源太郎の随筆について触れたくだりがあって、嬉しかった。来週は半年ぶりの鈴本演芸場なので、ひさびさに上野づいている。買ったままそれっきりだった小絲源太郎を読んで、気分を盛り上げる。