ニューオータニで小林かいち展を見て、モダン京都をおもう。

昼下がり、炎天下の弁慶橋を渡って、ホテルニューオータニに足を踏み入れ、エスカレーターで6階にあがって、ニューオータニ美術館へ。開催を知って以来、たいへんたのしみにしていた《謎のデザイナー 小林かいちの世界》展、とにかくも無事に来られて本当によかった! とほっと息をついたところで、シズシズと展覧会場に入場。順路に沿って、じっくりと絵葉書や絵封筒のひとつひとつを凝視してゆく。


小林かいちの絵葉書を初めて見たのは、2007年5月末、東京古書会館にて開催の「地下室の古書展」でのこと。山田俊幸編『小林かいちの世界 まぼろしの京都アール・デコ国書刊行会asin:4336048509)の刊行に合わせて催されたもので、小林かいちの絵葉書のひとつひとつを凝視する愉しみもさることながら、大正末期から昭和初期のモダン都市時代の紙モノという観点にモクモクと類推すること多々ありで、なにかと胸が躍った。それから、翌2008年の年明けは、弥生美術館に併設の竹久夢二美術館で小林かいちの展示があって、新年早々眼福だった。前年の「地下室の古書展」でのよき思い出がフツフツとよみがえってくるのが嬉しかった。


それから1年と数か月。2007年12月から翌年1月にかけての京都精華大学での展覧会の折に遺族が名乗り出たことで、それまで「謎」だった小林かいちの経歴が明らかになった、ということを経ての今回の展覧会にて、ひさびさに小林かいちに対面することと相成った。小林かいちは1896(明治29)年生まれで、1968年没。戦後は友禅の図案に従事していたという。小林かいちは、林達夫尾崎翠と同年なのだった。




小林かいち《夜の微笑》、山田俊幸編『小林かいちの世界』(国書刊行会、2007年5月)、「小林かいちの絵葉書世界」より。



今回の展覧会は、一昨年からの小林かいち体験(というのも大げさだけど)の自分のなかでの総決算という感じの、「あらためて満たされる歓び」という言葉がぴったりの時間だった。おのおのの展示には丁寧な解説が添えられてあって、まず展示を凝視して、解説をフムフムと参照して、ふたたび展示を凝視、というふうに、じっくりと順路をたどってゆくことになる。馬鹿の一つ覚えで勝手に胸躍らせている「モダン都市文化」といったものが、小林かいちの作品を見通すと、あらためて新鮮に体感することができて、むやみやたらに嬉しくなってくる。


作品に添えられた解説は、小林かいちのモティーフについて語るということは、同時代の「モダン都市文化」の事象あれこれを語ることだということを鮮やかに体感させてくれる。第一次大戦後にトランプの輸入が急増したことで、大正末期から昭和初期にかけて、きものや帯の模様にさかんに使われたこと。カフェでトランプに興ずるのがモダン生活の象徴であったこと。同じく、クロスワードパズルが大正終わりに大流行して、トランプの同じようにその幾何学的模様がさかんに図案として用いられたこと、などなど。ほかには、ゴンドラ、ヨット、ダンス、カナリヤ、廃墟、蜘蛛の巣といったキーワードが登場する。きもの姿の女性が欧米風プロポーションであるのがかいちの特徴で、そこに添えられた解説には、今和次郎考現学の採集結果が紹介されていたりする(洋装女性は、大正14年は1%だったのが昭和3年には19%に急増)。かいちの作品は大半が夜の景色だ。わが愛読書の、ゆまに書房の「コレクション・モダン都市文化」第21巻の『モダン都市の電飾』(2006年12月)のことを思い出して、なんだか愉しい。デザインの源泉としての「童話」、1920年代から30年代のかけての童話、という観点も、戦前明治製菓の「スヰート」研究の一環として日頃から追っていることなので、モクモクと刺激的だった。




岡落葉《夜の東京駅》、秋田貢四編『夜の東京』(文久社、大正8年9月7日)の挿絵、「コレクション・モダン都市文化」第21巻『モダン都市の電飾』(ゆまに書房、2006年12月)より。





小林かいちは、竹内勝太郎(1894年生まれ)の同世代で、同時代の京都を生きていた。先月末の古書展にて、安かったのでふいに気が向いて竹内勝太郎の詩集『室内』の裸本を買って、帰宅後の昼下がり、さっそく繰ってみたら妙に心に残り、この一ヶ月は竹内勝太郎がらみでなにかと散財をしてしまった。竹内勝太郎と彼の生きていた時代の京都、というのを追究してみたいなとフツフツと思ったところで、今回の小林かいち展とあいなった。最良のタイミングの展覧会となって、たいそう格別なことであった。涼しくなったら京都へ出かけたいなといろいろと本を繰って気を紛らわす高温多湿の日々がずっと続いている。




竹内勝太郎『詩集 室内』(創元社、昭和2年12月20日)。装釘:船川未乾。

……二、三十枚の略伝を書きながらわたしが驚かされたのは彼の不幸せな生涯と、彼の人柄や詩の明るい調和とのコントラストであった。また、残されていた二十代の原稿とくらべて、晩年の仕事の示している充実した発展にも驚かされた。無門関か何かで見た「かわらを磨いて鏡にする」という事柄の実例をそこに見たような気がした。一歩一歩うまずたゆまず前へ向って歩いてさえおれば、遠く遥かなところへ到達出来るのだという感じがした。二十代の原稿を見れば天才のかけらも見られぬような人があのような晩年の詩にまで行きつけたのだ。努力したから出来た。全く当り前のことがこの人の中で当り前に行われていたのだという感じを味わうことは何か大きな明るさを与えてくれた。それははなはだ有難いショックである。二十代の神経衰弱ばかりやっている文学青年じみた暗い厭な奴から、どうしてこのような強靭な調和に満ちた人間が生れてくるようになったか、それも、自分自身がその厭な奴に外ならなかったわたしにとって驚くべき救いのように思われた。


富士正晴「竹内勝太郎論」(初出:「思想の科学」1959年2月→『贋・海賊の歌』未来社・1967年10月)より】