昭和10年の「書窓」から、昭和3年の「パンテオン」の船川未乾へ。

8月朔日は、とある閲覧室にこもって、雑誌をいろいろ繰って日が暮れた。とりわけ、アオイ書房の「書窓」をじっくり眺めることができたのが格別だった。今回は、創刊号(昭和10年4月10日発行)から1年分の12冊で時間切れ。1930年代の書物雑誌を繰るのはいつもなんと愉しいのでしょう! と、繰ったとたんに心がスウィング、いままで見逃していたのはなんとももったいなかったけれども、これから少しずつ、じっくり閲覧していけたらいいなとフツフツと嬉しくなったところで、閉館五分前。

書窓
 徹底的に書痴振りを発揮した書誌としては、志茂太郎氏経営のアオイ書房から発行した「書窓」が髄一であろう。編輯者は装幀界の権威恩地孝四郎画伯の存分な手腕とマッチしての企画だけに、単に財力だけでは出来ない功績が発揮されたのであらう。
 創刊は昭和十年四月十日、月刊として後日多少の遅刊も見たが、六冊を以て一巻とし、十九年六月の、通号百三冊で戦争の余波もあり休刊になつたものと思ふ。兎に角良心的な道楽事業としての十年不断の努力には敬意を表する。
 毎号の表紙は恩地氏の図案の色刷りでアンカット限定番号入りに、絵は精巧な写真版の外に原色版を加へ、本文は上質紙で挿絵も存分に使用し、単式凸版印刷というコリ方で、時々印刷研究特輯、出版創作特輯、夢二追悼特輯、蔵票特輯、紙の輯、夢二スケッチ帖抄、等の特輯や倍大号を出したので、時には骨休めの必要もあり一面には第三種取扱の申訳けとして、新書批評輯なる名目で、四頁乃至八頁のパンフレットを出したのは考へたもので、本冊には通し番号を附したが、このパンフレットには、巻と号のみで別格に扱はれた。(後略)
斎藤昌三『書物誌展望』(八木書店、昭和30年5月15日)より】


アオイ書房の初の刊行書が、徳川夢声『くらがり二十年』(昭和9年3月刊)となった縁はなんだったのだろう、と前々から気になりつつも、特に追究することなく現在に至っているのだった。創刊号ではさっそく、「いとう句会」で1周年を記念して限定版句集をこしらえている旨、限定五十部で三十部を頒布、アオイ書房で「お取次ぎいたします」旨、告知が出ている(全冊鴨下晁湖の木版が施されているというこの道楽出版、内田誠が刊行主事をかってでたという。ああ、欲しい……)。室生犀星が「日記」に、内田百間から『鶴』を、林芙美子から『泣蟲小僧』をもらった、と書いているのを見たとたんに、日頃から古書展ないし古書目録での散財対象の1930年代文藝書というものを思って胸躍ったり、江川正之が堀辰雄の『聖家族』を処女出版として3年前に江川書房を始めた当時すでに三十何冊かの本を手がけていた、2年後手がけた本の冊数が四十に達する頃になってようやく、『聖家族』の造本の素晴らしさが骨身にしみてよくわかった、と書いているのを見て、戦前昭和の小出版のありようにいつもながらにむやみやたらと心かき乱されるのが快感だったり(物欲の制御につとめねばならぬ)……などなど、創刊号の1冊だけでさっそく「書窓」に夢中になってしまった。


当初は文学ないし書物を目当てに閲覧していたはずだったのに、いつのまにか、映画や演劇、美術、建築などが混然一体となった「1930年代東京」といったようなものをまざまざと体感している(というつもりになる)のが、1930年代雑誌探索のたのしいところ。筈見恒夫が《何か書物と関係のある映画ばなしといふので…》と、「文藝映画展望」という文章を書いていたり、同時期の「三田文学」で「四馬太郎」名義で冴えたレヴュー評を書いていた、当時 P.C.L. 文芸部にいた阪田英一(昭和10年9月に沙羅書店より『レヴューをりをり』を刊行している)がひょいと登場していたり、上司小剣が日吉へ苺狩りに出かけて、『建築の東京』でおなじみの慶應義塾予科の白亜の新築校舎に圧倒されていたり、などなど、心が躍ったくだりは、枚挙にいとまがない(1年分見ただけなのに!)。


逸見享が大手拓次(昭和9年4月没)の詩集『藍色の蟇』を編纂していることを綴り、《もう一年以上になるが、永く住み通した、あの神楽坂の下宿に今でも居るような気がする》と結んでいるのが強く印象に残った(第4号・昭和10年7月)。追悼文といえば、高松棟一郎が「寂しい愛書家」と題して神代種亮のことを書いていて(第5号・昭和10年8月)、昭和11年4月号には「寺田寅彦先生追悼」という文章も書いている。帚葉=神代種亮寺田寅彦の追悼文はおのずと、1930年の銀座風景を髣髴とさせて、そんな書物を通した「1930年代東京」というものがいつもながらに愛おしいのだった。




その逸見享による1930年代東京図会。逸見享《築地》、「書窓」第2巻第2号(昭和10年11月10日発行)掲載の木版より。昭和15年6月に勝鬨橋が完成する以前の築地風景。



そして、「書窓」が創刊された昭和10年は、竹内勝太郎が亡くなった年なのだなあということをふと思い出して、思い出したとたん、頭のなかは竹内勝太郎とその周辺のことでいっぱいになる。「書窓」が創刊された「昭和十年」あれこれを探索すべく部屋の書棚を掘り返すとしようと、帰宅後の室内での本読みが待ち遠しくなったところで、外に出て、帰路につく。閲覧室での閲覧もたのしいけれども、部屋での本読みもたのしい。




竹内勝太郎『西欧藝術風物記 京都=巴里』(芸艸堂、昭和10年9月1日)。装釘:船川未乾。画像は函。本体の表紙にも同じ絵があしらってある。竹内勝太郎は明治27年京都市生まれ、昭和10年6月15日、黒部の渓流で墜落死(享年42)。本書の校正半ばで竹内は他界。昭和5年没の船川の装画で、榊原紫峰の跋で、竹内の遺著となった(竹内の渡欧は昭和3年7月、帰朝は昭和4年3月上旬)。



昭和10年の京都といえば、今回「書窓」で初めて「時世粧」という宣伝雑誌を知った。いつの日か、手にとって見てみたいなあと思う。日頃から戦前の明治製菓の「スヰート」周辺を追っている身としては、戦前昭和のモダン都市のハウスオーガンというだけで、憧れてしまうのだった。




恩地孝四郎「書窓書架」に掲載のグラビア、「書窓」第1巻第6号(昭和10年8月10日発行)より。恩地によると、「時世粧」とは堀口大學編集の、《京都のりゅうとした服装品雑貨店貴金属文具店漆器店家具店等の人を同人とする趣味深い宣伝用雑誌》、《毎集豊富な写真口絵を収め、粒選りの文人の執筆が連る。コットン紙オフセット印刷のしっとりしたもの。共同印刷の仕事であって中々美事である》、《詩あり随筆あり小品あり小研究あり誠の頃あいの、例えばそれらの店の華客たちのサロンに置くにふさわしい編集ぶり流石である》とのこと。





先月、とある古書展にて、裏表紙が森永製菓だという理由だけで、だいぶ薄汚れている昭和10年の「セルパン」を買った。こういう買い物こそが古書展の醍醐味だなあとホクホクと買った(200円)。




「セルパン」昭和10年4月号の裏表紙。《陽炎は春のけむり/森永チヨコレートは/味の花束です!》と、ムーラン・ルージュの伊馬鵜平作『かげろふは春のけむりです』(昭和9年3月初演、翌10年2月再演)をもじった広告文に頬が緩む。十返肇が森永製菓宣伝部に勤めるのは同年の秋以降なので、十返肇の文案でないのは確実なのが残念。


と、先月買ったばかりの「セルパン」は、奇しくも、「書窓」が創刊されたのと同年同月の号なのだった。長谷川郁夫『美酒と革嚢 第一書房長谷川巳之吉』(河出書房新社、2006年8月)をひさびさにとり出して、この頃の「セルパン」のありようを見てみると、昭和10年1月より春山行夫が編集にあたり、メキメキとその手腕を発揮、《「セルパン」が詩の雑誌ではなく、綜合雑誌化を目指しているところに、春山が編集を引き受けた動機があったと推察される(p.276)》、《春山「セルパン」十年四月号以降を手にして、まず気付かされることは、広告量の急増である(p.300)》というふうな指摘が、『美酒と革嚢』にある。そのまっただなかの「セルパン」を手にしたわけで、『美酒と革嚢』を読み返しつつ、あらためて眺めてみると臨場感たっぷり。同年の昭和10年、前年より「綜合雑誌」化していた「行動」のありようなどを思い出し、その編集部にいた野口冨士男を思ったり、などなど、日頃の最大の関心事項のひとつ、戦前の野口冨士男の周辺を「第一書房」という観点で見つめ直す絶好の機会となった。


そして、昭和10年春山行夫の「セルパン」を見たあとで、長谷川郁夫さんが《昭和三―四年、すでに「第一書房文化」とよばれるものの素地はできあがっていた。そしてそこが巳之吉の最初の達成点である(p.168)》としているまっただなかの、「パンテオン」を見てみると、あらためて深く感じ入るものがある。




「PANTHEON」第8号(昭和3年11月3日発行)。この号に、《第一書房発祥の地高輪を引拂ひ 理想の地 麹町區一番町に移りて 長谷川巳之吉》なる告知がある。番町移転と「第一書房文化」の素地の完成はほぼ同時期のことだった。戸板康二辰野隆の訳本を買いに第一書房を訪れたのは昭和7年、慶應義塾予科に入学した年のこと。「パンテオン」は同年4月創刊、翌昭和4年1月に堀口大學日夏耿之介の不和により突如廃刊(全10冊)。


上に掲げた「セルパン」と「パンテオン」、いずれも先月の同じ古書展で買ったもの。「セルパン」は裏表紙の森永製菓広告を見て突発的に買ったのだけども、「パンテオン」の方はその日の古書展行きの一番のお目当てだった。富士正晴がチラリと、第一書房の「パンテオン」に船川未乾の絵が色刷りで載っていた、というようなことを書いているのを見たとたんに、次回の古書展行きが待ち遠しくなっていてもたってもいられなくなった。「パンテオン」は古書展にゆくたびにいつも見かけるような気がする、いつも大体数百円だったような気がする、次回の古書展の折にはぜひとも船川未乾の図版が載っている「パンテオン」が売っているといいなあと思っていたら見事見つかって、森永製菓の「セルパン」とおんなじように、ホクホクと買った次第だった。




「PANTHEON」第8号に掲載の船川未乾のカラー図版。《一九二八年 船川未乾作》と記載されている。




そのあとも、「パンテオン」で続々と船川未乾を蒐集して悦に入っていた。




「PANTHEON」第6号(昭和3年9月発行)掲載、《一九二六年 船川未乾作》。



おなじく、第6号に掲載の白黒図版、《一九二六年 船川未乾作》。




「PANTHEON」第9号(昭和3年12月)掲載、《一九二八年 船川未乾作》。



閲覧室で、昭和10年の「書窓」を繰ってからこの一週間、同年刊行の竹内勝太郎の遺著、『西欧藝術風物記』を経て、昭和3年の船川未乾へと至った。上掲の「パンテオン」に船川未乾の絵が掲載されていた当時、竹内勝太郎は『西欧藝術風物記』に記録されている渡欧生活の真っただ中。昭和3年、竹内勝太郎は35歳。船川未乾は京都で病臥中(昭和5年4月9日没)。富士正晴『竹内勝太郎の形成』(未來社、1977年1月25日)の、《この年は詩集「室内」にはじまり、大阪時事新報社退社、七月よりの外遊に終わる(p.308)》という昭和3年のページから、竹内勝太郎宛書簡と富士正晴の文章を読みだしたら、とたんに夢中になり、しばらく余波が続きそう。それにしても、『竹内勝太郎の形成』はすごい本だ。