夏休み関西遊覧その1:阪神電車で美術館へ。ガスビルでモダン大阪。

東京駅午前8時発の新幹線は定刻通りに10時半過ぎに新大阪駅に到着。いつものようにイソイソと小走りして、御堂筋線の改札口へと向かう。御堂筋線に乗りこんでほっと一息ついたら、いつものように今度は、電車が淀川を渡る瞬間が待ち遠しくてたまらない。




新大阪から梅田に向かうとき、御堂筋線の車窓から JR の鉄橋が見えると、いつもそれだけで大喜び。小津安二郎の『彼岸花』(昭和33年9月封切)のラストシーンでは赤かった鉄橋は、今は白に塗りかえられている。低い山並みの眺めが実にいいなあといつも思う。この山並みが目に入ると、「ああ、関西だなあ」といつも思う。


大阪来訪の歓喜にうちひしがれているうちに、御堂筋線はあっという間に梅田駅に到着。次は阪神電車に乗って、阪神間へゆくのだ。と、その前にわざわざドーム天井のホームへと移動して、「モダーン!」な地下鉄ホームを満喫したあとで、阪神電車の改札へと移動。今回の関西遊覧では大阪の地下鉄は早くもこれでおしまいなのだった。


旧高嶋邸を再訪して、昼食。十一谷義三郎と阪神間の酒造家に思いを馳せる。

阪神電車の特急は甲子園駅を過ぎたら、あんなに混雑していたのが一気に閑散となった。現在、甲子園球場高校野球の真っ最中。関東の人間が思っている以上に、関西人にとって高校野球は身近な行楽なのかもとしみじみしているうちに、車内が消灯になっていることに気づいた。薄暗い車内からの車窓の眺めは、いかにも夏の日差しが照りつけていて眩しい。「色ガラスの街」という言葉がぴったりな感じにキラキラ輝いている。車内の消灯は、関東ではあまり遭遇しないような気がする(たぶん)。省エネかな、なるほどさすが関西、と勝手に決めつけて面白がっていたのだけれども、いつのまにか再び点灯していて、ちょっと残念だった。阪神電車の移動はいつもたのしく、これまでの遊覧をいろいろと思い出しつつ車窓を満喫しているうちに、あっという間に御影に到着。ここで各駅停車に乗り換えて、新在家で下車。


ちょうど時分どきなのでこれ幸い、前回の関西遊覧のよき思い出を胸に、現在は「甲南漬資料館」となっている旧高嶋邸を再訪して、旧高嶋邸室内の和室で、今度は昼食を食べようという計画だった。




日傘片手に炎天下の道を直進、ほどなくして阪神電車の車庫の前で右折すると、今は「甲南漬資料館」となっている旧高嶋邸の建物が視界に入る。前回の来訪時に資料館を見物したおかげで、今は車庫になっている旧高嶋邸の背後の敷地は、かつては漬物工場だったということをわたしは知っている。阪神電車の車庫を見ながら、かつての漬物工場をおもう。



前回同様、建物が視界に入ったとたん、小走りして、旧高嶋邸の脇から「こうべ甲南 武庫の郷(http://www.konanzuke.co.jp/mukonosato/)」の敷地に入る。現在は「甲南漬資料館」となっている旧高嶋邸。モダン都市時代の様式が混在した独特な建築がたいへんおもしろくて、二度目だというのに、やっぱり目を見張るものがあるのだった。



と、数か月ぶりに「甲南漬資料館」の旧高嶋邸を再訪して、とにもかくにも、大よろこび。前回は邸内の応接室での喫茶が格別だった。旧高嶋邸がたいへん気に入ってしまった、これから何度でも訪問したい、次回はぜひとも和室で昼食を食べたいなと思っていた。あれから数か月、早くも念願かなって、やれ嬉しや、と、意気揚々と邸内に足を踏み入れようとしたまさにそのとき、「平介茶屋」(←邸内の和室の名称)がお盆休みである旨、告知が出ているのが視界に入り、大いによろめく。わたくし同様、平介茶屋も夏休みの真っ最中なのだった、ああ、なんということだろう、といつまでもよろめいてしまいそうな勢いであったが、おなじ敷地に鮨屋うどん屋が並んでいるのが視界に入ったとたん、炎天下の道を歩いてきた身にとっては冷たいうどんをつるつるすする方がふさわしいような気がしてきた。と、一瞬にして気持ちが切りかわり、こ、こうしてはいられないと、ズンズンと猪のようにうどん屋へ突進して、無事に腹ごしらえが済んで安心したあとで、旧高嶋邸の建物に足を踏み入れて(資料館は開館している)、その空間を満喫。機会があったらいつか2階も見学したいなと思う。


前回の関西遊覧の折(id:foujita:20090301)、旧高嶋邸の甲南漬資料館を訪れた直後に、神戸文学館(http://www.kobe-np.co.jp/info/bungakukan/)で十一谷義三郎の展示を目の当たりして胸がいっぱいだった。十一谷義三郎は前々から妙に心惹かれる存在で、ずっと心にベタリと貼りついている作家だった。展示に添えられた「神戸一中入学と同時に御影東明村の酒造家の下僕となり苦学」という解説を目にした瞬間の感激といったらなかった。酒造家を代表とする、「阪神間モダン」を彩る実業家群像といったことに、なんとはなしに心がウキウキ。先ほどまで御影の奈良漬の実業家の「モダーン!」な邸宅に出かけたばかりの身にとっては、なんと臨場感たっぷりだったことだろう。と、神戸文学館での十一谷義三郎がたいそう嬉しく、帰京後、以前に増して十一谷義三郎熱に浮かされ、以来、閲覧室では十一谷義三郎追跡にずいぶんいそしんだし、十一谷義三郎がらみで人に言えないような散財もしてしまった。


あとになって知ったところによると、昭和5年に清水栄二の設計でモダーンな邸宅をつくった奈良漬けの商店主の高嶋平介は、十一谷義三郎の「神戸一中入学と同時に御影東明村の酒造家の下僕となり苦学」の酒造家の高嶋氏の分家筋にあたるのだという。【→参考:「灘五郷が育てた小説家 十一谷義三郎(http://www.taruya.com/blog/2005/02/post.html)」- 酒樽屋日誌(http://www.taruya.com/blog/index.html)】


前回、なんにも知らずに旧高嶋邸の甲南漬資料館に来てしまったのだけれども、「灘五郷が育てた小説家 十一谷義三郎(http://www.taruya.com/blog/2005/02/post.html)」を拝読して、明治末期から大正初期にかけて、十一谷義三郎は旧高嶋邸の道路をはさんだ向かい側にあった、高嶋太助が創設した「明徳軒」に入り浸って、その蔵書を手当たり次第読みふけっていた、ということを知った。これぞまさしく自筆年譜(参照:『十一谷義三郎 五篇』EDI 叢書・2000年3月)にある、

明治四十三年

兵庫県立第一神戸中学校入学。東明の酒造家高島氏の家僕となり苦学す。爾後中学卒業までに中学卒業までに、高島氏が創設したる村の図書館の蔵書は、和漢洋殆ど無差別無洗濯に之を読破したり。後来頭に残りしもの、文学では、漱石、木下尚江等、宗教では、日蓮、経済では、福田徳三氏の日本経済史、マーシャルの原論等なりき。


【『現代日本文學全集61 新興藝術派文學集』(改造社、昭和6年4月15日発行)に収録された作家自筆年譜より】

のくだり。前回の遊覧にて、旧高嶋邸のあとに神戸文学館で十一谷義三郎にますます夢中になる機会を得たというのも、わたしにとっては、なんとも出来過ぎな展開だったのだった。ますます、「阪神間モダニズム」に興味津々になるというもの。灘五郷の旦那衆がつくりあげた阪神間モダン、といったくだりにもあらためて開眼することなって、感激しきりなのだった。旧高嶋邸とおなじ清水栄二の建築による御影公会堂に寄付した白鶴の嘉納治兵衛、その嘉納のコレクションを収める白鶴美術館、フランク・ロイド・ライトに別荘設計を依頼した桜正宗の山邑太左衛門……。


そんなこんなで、旧高嶋邸にはなおいっそう思い入れたっぷり。これから先、何度でも来訪して、十一谷義三郎に思いを馳せたい。このたび、「平介茶屋(http://www.konanzuke.co.jp/mukonosato/heisuke.htm)」での昼食がお預けになってしまったのは、次回のおたのしみにとっておくことになった、ということにしておこうと思う。




中川紀元《J氏像》、1925年9月(第12回二科展出品)。

 「白樺になる男」の時代は、苦しかった。健康もいけなかった。身辺も重苦しかった。生活自身もよくなかったが。ゴールデン・バットを一日に十五ハコも明けるようになったのは、この時分からだ。汗に、小便に、ニコチンを排出する。医者が、死ぬぞと云った――死ぬ方が楽だと思いつめた。
 そのころの僕の枯容は、中川紀元君の「J氏像」になって、二科に出たのが残っている。……


【十一谷義三郎「孤独餓鬼の微笑」 - 『ちりがみ文章』(厚生閣、昭和9年4月18日)所収】

『白樺になる男』の初出はプラトン社発行の「女性」大正14年10月号、その時期の十一谷義三郎像。前年の大正13年、J氏は文化学院の英語英文学の主任に就任、中川紀元は文化学院の同僚だった。「文学時代」の同人になったのもこの年。



なにはともあれ、無事に腹ごしらえが済んで、めでたし、めでたし。新在家の駅に戻り、ふたたび阪神電車に乗りこんで、ちょっとだけ大阪方面へと戻る。住吉駅の階段横の丸窓がかすかに見えて、嬉しかった。魚崎で下車して、六甲ライナーに乗り換えて、次なる目的地は、神戸市立小磯良平記念美術館(http://www.city.kobe.lg.jp/culture/culture/institution/koisogallery/)なり。


六甲ライナーの「近未来!」という感じの乗り心地に観光客によろこび全開。前方の工場地帯の眺めもたのしいし、後方の六甲の山並みもすばらしい。と、車窓をたのしんでいると、「菊正宗」の古色蒼然としたネオンを見かけて、ワオ! と大興奮。先ほど、旧高嶋邸で阪神間の酒造家群像に思いを馳せていた、その直後に目の当たりにしたので、なおのことを嬉しい。阪神間の移動で、酒造家たちが彩った「阪神間モダン」ということを肌で感じるひととき。




六甲ライナーの車窓から見えた「菊正宗」のネオンサイン。




《菊正宗 ポスター 北野恒富》1922(大正11)年頃、図録『関西のグラフィックデザイン展 1920〜1940年代』(西宮市大谷記念美術館、2008年)より。「菊正宗」のロゴが、現在のネオンサインとまったくおんなじだ!


小磯良平美術館の亀高文子展と兵庫県立美術館阪神電車の車内で、川西英の図録を眺める。

魚崎で六甲ライナーに乗り換えて2駅目の「アイランド北口」で下車したら、お目当ての神戸市立小磯良平記念美術館(http://www.city.kobe.lg.jp/culture/culture/institution/koisogallery/)はすぐそこ。4年前夏の初めての阪神間遊覧の折に訪れてさっそく大好きになってしまって、この先何度でも訪れたいと思った。ひさしぶりの来訪が、かねてより気になっていた亀高文子(=渡辺文子)の展覧会となった、というめぐりあわせが、極私的にたいへん嬉しく、夏休みになのでこれ幸い、会期早々にさっそく来てしまった次第だった。


わたしにとっては、神戸移住前の旧姓の渡辺文子の方がおなじみの、亀高文子は明治10(1886)年に横浜に生まれた洋画家。富裕な商家の一人娘だった渡辺文子は、画家志望だった父の夢を託されて、女子美術学校を明治40(1907)年に卒業後、太平洋画研究所に入所、中村不折にデッサンの指導を受ける。この時分、美貌の渡辺文子に小杉放庵、山本鼎、鶴田吾郎、会津八一らが思いを寄せるも、文子は宮崎与平と結婚。一人娘だったので与平が渡辺姓となる。渡辺与平は、明治40年代に竹久夢二と並ぶ「齣絵」のスターであったものの、明治45(1912)年、23歳で病没。大正10(1921)年に商船会社に勤務する亀高氏と再婚して亀高姓となり、大正12(1923)年に神戸に転居してからは関西洋画女性画壇のリーダー的存在として活躍、1977年に没する。……と、ここまで書き連ねた渡辺文子の来歴はすべて、わが愛読書、上笙一郎著『日本の童画家たち』平凡社ライブラリー583 (平凡社、2006年8月刊)によるもの。(渡辺文子は、長谷川時雨『美人伝』(東京社、大正7年)に「ネルのふみこ」として取り上げられているというのが前々から気になりつつも、いまだ未見。)



 
上笙一郎『日本の童画家たち』平凡社ライブラリーasin:4582765831)。カバ―図版:竹久夢二(「引田龍太郎童謡小曲集」表紙絵)。解説:川村伸秀川村伸秀さんの関わる本は好きな本ばかり、というのが自分内法則なのだった。


洋画家・亀高文子以前の、童画家・渡辺文子としての活動は、夫と死別して幼い二児を抱えて生活のために、挿絵画家となったことによるもの。上笙一郎さんの『日本の童画家たち』の「渡辺文子」の項には、《彼女のもっとも多く寄稿したのは、絵雑誌では「子供之友」、児童雑誌では「新少女」「少女の友」などで、「少女画報」では吉屋信子の短篇連作「花物語」の挿絵も付けました。信子の「花物語」のイラストレーション、大抵の人が蕗谷虹児がもっぱら描いたと信じているようですが、当初は文子の筆であったのです。》とあり、

文子のイラストレーションは、大正中期、いわゆる児童文化ルネッサンスの澎湃として興こる前の時期に描きはじめられたものであり、夢二や与平に代表される明治末期の齣絵の影響を受けています。けれど、あどけない顔に大きな足の幼女をラフな筆致で可愛らしく描いて特長的な彼女の絵には、少し後の虹児やまさをなどにおいて華麗に華ひらく〈リリシズム〉の本質的なものが秘められていた――と言わなくてはなりません。そしてそれ故に、わたしは彼女を、〈童画〉とともに日本の〈抒情画〉の系譜における〈源流〉のひとつにも数えるのです。

というふうに、項を締めくくって、きわめて懇切に解説されている。


そうした挿絵画家としての活動に増して、わたしが興味津々だったのが、渡辺文子が大正期のレート化粧品の「平尾賛平商店」の広告部に勤務して、レート化粧品の広告絵をたくさん描いていたということ。去年春にミツワ石鹸の丸見屋商店の宣伝活動に大いに盛り上がってしまい、これを機に、明治大正から昭和初期にかけての小間物屋の系譜、おもにその広告活動をちょっとばかり追究していたのだった。その折に閲覧した資料のうち、『平尾賛平商店五十年史』(昭和4年刊)が、広告宣伝についての記述が充実していることもあって、抜群に面白かった。あまりにすばらしいので、レート化粧品の広告に注目してみたら、ひょいと渡辺文子と出会った。


渡辺文子の挿絵画家としての活動は、渡辺与平の没する明治45(1912)年から亀高氏と再婚する大正10(1919)年の間のほんの一時期で、レート化粧品の平尾賛平商店の広告部に勤めていたのは大正4(1913)年から大正8(1917)年までのさらにほんの一時期だけれども、書物との関連としての絵画、モダン都市時代(ないしその前史)の広告といった日頃の関心事項に直結する人物として、渡辺文子の名前はこの1年間、すっかりおなじみであった。


前回の関西遊覧の折、神戸文学館の閲覧室の神戸資料の棚で、上笙一郎さんが『日本の童画家たち』で言及していた、神戸新聞学芸部編『わが心の自叙伝・一』(のじぎく文庫、昭和42年)を見かけて、「あっ」と手にとった。ここに亀高文子による自叙伝が収録されている。これまでは、大正10年に再婚するまでの、二十代東京勤労女子としての渡辺文子にばかり目が行っていたのだけれども、初めて「神戸の洋画家」としての亀高文子ということに思いを馳せるきっかけとなった瞬間だった。




小磯良平記念美術館(http://www.city.kobe.lg.jp/culture/culture/institution/koisogallery/)にて2009年8月8日から10月18日まで開催の、《特別展 神戸の美術家 亀高文子とその周辺》のチラシ。こちらの絵は、《鸚鵡と少女》(1920年)。



そういうわけで、今回の展覧会は、洋画家としての渡辺文子および亀高文子についてはこれまでほとんど未知だったので、極私的にたいへん嬉しかった。オズオズと展示室に入室して、時系列にその作品をたどってゆくと、中村不折に習ったというのがいかにもな、その確かなデッサン力にまず目を見張るものがあって、作品を見てゆくにしたがって、ああ、いいないいなと、心地よく絵を見ていて、いつのまにか上機嫌になっていることに気づいた。「絵を見る」ということの歓びを控えめだけれども確固と感じるのが、とても心地よかった。たまに、「童画家」の来歴が垣間見えるような、ちょっとしたタッチがかわいらしくて、にっこり。震災後に神戸に移住した亀高文子は、谷崎潤一郎とほぼ同時代の関西を生きていたわけで、そんなモダン都市時代の関西に思いを馳せるのもたのしく、晩年に集中的に描いていた花の絵にも惹かれるものがあった。洋画作品の合間に、「童画家」としての活動が紹介されているというのも嬉しかった。『少女画報』、『新少女』、『子供之友』の誌面をウィンドウ越しに見て、上笙一郎さんの本で目を見開かされた、童画を通しての近代日本文学史、ということをこれから追究できればといいなと思った。


「神戸の美術家」と銘打ってある亀高文子展、さすがはご当地、とても丁寧に設計されてあって、その点でもとても好ましかった。亀高文子の周辺の美術家の紹介が充実している。渡辺与平の『ヨヘイ画集』(明治43年刊)、『ヨヘイ画集 愛らしき少女』(大正2年刊)、『コドモ 絵ばなし』(大正3年刊)をウィンドウ越しに凝視して、メラメラと物欲を刺激されて、たのしかった。それから、与平と文子の長男の渡辺一郎の絵がとても好みで、特に《調理台の上》(昭和30年)が大好き! 渡辺一郎は、西宮市大谷記念美術館の所蔵のものが主に展示されていて、いつか西宮で渡辺一郎を見たいなと思った。




中山岩太ポートレート(亀高文子)》、『中山岩太 MODERN PHOTOGRAPHY』(淡交社、2003年4月)より。このポートレイトが亀高文子展のまんなかあたりに展示されている。大きなプリントで見て大感激だった。中山岩太といえば、去年年末の東京都写真美術館での展覧会が嬉しかったけれども、たのしみにしていた図録があんまりしょぼいので、心の隙間を埋めるべく思い余って、淡交社の写真集(asin:4473019888)を衝動買いしてしまったのだけれども、買って大正解だった。神戸に出かけたあとで眺めると嬉しい写真も多数掲載されていて、関西遊覧の際の必須文献になりつつある。



などと、亀高文子展だけですでに大満足だったのだけれども、常設の小磯良平の展示もしみじみ素晴らしいのだった。小磯良平の絵に対峙しているときならではの、心穏やかに絵を見るというひとときが大好きだ。ああ、もうなんて素晴らしいのだろう! とジーンと展示室をぐるっとひとまわり。小磯良平を見るということは、竹中郁を思うということでもあるのだった。小磯良平を見るたびに、いつも衣服のタッチに注目するのがいつもたのしい、などと、絵そのものの歓びも満喫。




美術館の中庭に再現されている小磯良平のアトリエの外部。





小磯良平《時計のある静物》、1968年。小磯良平美術館に再現されているアトリエの空間を目の当たりにすると、この静物画をまざまざと実感できて、なんとも格別。





小磯良平《彼の休息》、1927年。モデルは竹中郁東京美術学校卒業制作。足立巻一の『評伝竹中郁』を初めて読んだときから大好きだったのが、小磯良平の《彼の休息》にまつわるくだり。ポストカード入手の記念に、以下長々と抜き書き。

 つづいて小磯は卒業制作の準備にかかり、竹中郁をモデルにすることにきめた。アトリエがあるわけでなし、裸婦を描きたかったが家のなかではそうもできぬし、迷ったあげく竹中にモデルになってもらうことにした、と後年小磯はわたしにそう述懐したことがある。  
 構図には工夫がこらされた。これには竹中の意見も加えられたのであろう。ラグビーの練習を終わって、青年が室内で一休みしている図である。赤・黒縦縞のシャツ、黄色いパンツで黄色い椅子に腰かけてくつろいでいる。左脚のストッキングはぬぎかけのままにして赤いスリッパをはき、くるぶしを交差させ、右手では赤いハンカチを垂らす。右隅には脱いだばかりのラグビー靴が置かれ、横縞のビーチ・パラソルがたたんだまま立てかけてある。顔の表情はやや放心し、快い疲れを見せる。左半分の壁には登山用の赤いランプが吊され、マネの大きな画集が立てかけてある。「彼の休息」と題された。
 こうして家にあるさまざまな小道具を配し構図は知的に堅固に組み立てられ、赤・黒・黄・白などの色彩が緊密な均衡を保ち、縦一四五・五センチ、横一一三・五センチという大きな画面にいささかの弛緩もない。制作にはいると冬に向かっており、絵具の乾きを早くするためにストーブを焚いた。暑くて閉口した、と竹中が語ったことがある。
 立てかけてあるマネの画集に注目した京大教授乾由明の「小磯良平の画集」(昭和五十九年一月「木」梅田画廊)によると、兄の友人でベルリンの横浜銀行に勤めていた人が、第一次世界大戦後にマルクの価値が暴落したときに手に入れて持ち帰ったものという。精巧な印刷によってマネのパステルやドローイングを十数枚収めてあり、小磯はいまも愛蔵しているそうである。
 マネは大原コレクションにもはいっておらず、そのころゴッホルノワールのようになじまれたとは思われない。これについて乾由明はいう。「マネは通常印象派の一員に数えられているが、本質的にはフランスやスペインの古典的な絵画の伝統をもっともよく受けついだ画家だった。だがそれにもかかわらず過去の様式をただ踏襲するようなアカデミックな硬化におちいることなく、鮮麗な色面が音楽のように美しく調和しながら鳴りひびく、まことに清新な画面を創造した」。乾は昭和五十八年七月のパリでのマネの大回顧展を見て、ゾラのいう「張りつめた優雅さ」に感動し、小磯の絵画と共通するものを感じたという。これはいままでの小磯論になかった指摘であり、卓説だと思う。
 ところで、竹中自身は「関西文学」(昭和二年二月)の「円卓騎士」のなかで、こんなことを書いている。
  「『彼の休息』――これは或る絵の題なのだが、一人のラグビー選手が休んでゐる処だ。休んではゐるが、欠伸なんかしてゐない。むしろ反りかへつてゐる。この題が新しく反りかへつてゐるが如くに」
 ポーズも画題も、反りかえるようにまったく新しいというのだ。「円卓騎士」で竹中は「辻馬車の藤沢桓夫が、あらゆる過去の苗裔派どもを虐殺したいと云つた意気に感じる。往年ジャン・コクトオが過去の詩集を単なるヴオキヤブレイルにしか過ぎないと放言したのと相似て、僕は愉快を覚える、藤沢桓夫よ」と書いたように、当時鋭気に満ちていた。「彼の休息」における「反りかへる」もその鋭気の表現であった。
 この「円卓騎士」が活字になったのは二月五日であるが、書かれたのはおそらく前年の暮れであろう。「彼の休息」には「1927」のサインが入っているが、前年末には完成されていたことが竹中の文章でわかる。それから、いまの画面には亀裂があらわれているのも、ストーブを焚いて制作を急いだせいであろう。


足立巻一『評伝 竹中郁 その青春と詩の出発』(理論社、1986年9月)、p216-219】



小磯良平美術館の売店ではポストカード以外にも、思いがけなく、図録『特別展 川西英と神戸の版画』(神戸市立小磯良平記念美術館、1999年10月7日発行)が売っているのに遭遇して、ワオ! と重たい荷物もなんのその、ガバッと買って大喜びだった。ふたたび六甲ライナーに乗りこんで、ふたたび車窓をたのしむ。菊正宗のネオンが青い空の下、そびえ立っているさまをふたたび目の当たりにして、ふつふつと嬉しい。阪神電車の車窓からは白鶴の工場が見えたりもした。ああ、灘五郷。ここ数年すっかり日本酒を飲めない体質になってしまったのがつくづく無念だ、ふたたび日本酒を満喫するのを人生の目標としたい、と阪神間に来るたびにいつも思うことを、今回もしみじみ思うのだった。


そんなこんなで、次なる目的地は、岩屋駅が最寄りの兵庫県立美術館http://www.artm.pref.hyogo.jp/)なり。岩屋へ向かう阪神電車の各駅停車の車内で深い考えもなく、買ったばかりの川西英の図録を眺め出したら、その臨場感がなんともすばらしくて、ウルウルになってページを繰った。このままずっと眺めていたいという感じだった。なんて、素晴らしいのだろう!





川西英《甲子園球場》、1931年。朝日新聞社の社旗が見える。当時から高校野球朝日新聞社主催だったのかな。




川西英《甲子園野球大会入場式》、1937年。高校野球に無関心の人生を送っている身ではあるけれども、阪神電車の車内で川西英を見ているうちに、今まさしく、甲子園では高校野球の試合の真っ最中なのだなあと、ジーンとなってくる。今日も、この川西英の版画そのまんまの、青い空。



と、阪神間を移動しながらの川西英が、あまりに臨場感たっぷりで嬉しいあまりに、




川西英《神戸駅前》、「神戸百景」の内 18(1935年)。六甲の山並みもしっかり描きこまれている。


兵庫県立美術館のあとに、阪神岩屋駅を北上して数分の JR の灘駅から神戸駅に行ってみようかなと思った。その思いつきにたいそうワクワクしながら、ウキウキと岩屋駅を下車、しかし、改札を出て、兵庫県立美術館までの灼熱の道のりを目の当たりにしたとたん、急にへなへなとなる。しかし、くじけてはいけない。ゼエゼエと日傘片手にやっとのことで美術館の入口に到着、小磯良平美術館の落ち着いた雰囲気と対極にあるような、強大なコンクリート建築の真新しい美術館が威圧的、まあ、なにはともあれ、無事に到着してよかった。



兵庫県立美術館の特別展、《躍動する魂のきらめき――日本の表現主義》の会期は、今日を含めてあと3日。エレベーターでやっとのことで会場にたどりつき、無事にここまで来ることができてよかったッと歓喜にむせんだあとで、巨大な展示会場へ。岩波の「図書」最新号(2009年8月号)にて、この展覧会を「着想し発意した」という森仁史さんの文章の《一九〇〇年代から二〇年代の近代日本が独自の表現を溌剌と求めた熱情と躍動を示す作品――絵画・彫刻・工芸だけでなく、建築・デザインまで――で埋め尽くされた》という一節を目にして、開催を知って以来たのしみだった展覧会がいっそうたのしみになったのだけれども、今回の展覧会の企画が森仁史さんだと初めて知って、さらにたのしみになった。




図録『躍動する魂のきらめき 日本の表現主義』。実は半ば図録が目当てだったのだけれども、期待以上に大充実。気鋭の論考も満載。2009年4月に宇都宮で始まった展覧会は、神戸、名古屋、盛岡を巡回し、松戸市立博物館で幕を閉じる。森仁史氏はこの3月、「千葉県松戸市の美術館準備室長」の肩書で定年を迎えたとのことで、松戸市の美術館準備室といえば、戦前の明治製菓の宣伝誌「スヰート」にまつわるあれこれを追いかけているうちに興味津々になった、戦前、戦時下の宣伝部に所属の図案家の系譜を追究するうえでありがたい図録の数々を定価で提供してくださり、かねてより敬愛していたのだった。多くの図案家を輩出した、大正10年創立の東京高等工芸学校は、田町の校舎が空襲で焼けて、戦後に松戸に移転、千葉大学工学部の前身となった。と、今回、神戸で見た展覧会が松戸市博物館に巡回の折には(松戸の会期は12月8日から翌2010年1月24日まで)、図録でみっちり復習してから出かけるのだと、今からとっても張り切っている。松戸に出かけて、戦前の東京高等工芸学校に思いを馳せたい。



1900年代から20年代までの絵画、建築、デザイン、写真、工芸、映画、装釘などが「日本の表現主義」の名のもとに一堂に会して展示されている、と聞けば、それだけで胸躍るもの。本来ならば、みっちり時間をかけてひとつひとつの展示を凝視したいところだけれども、図録を入手できた安心感と年末の松戸行きの下見といった気持ちとが混在して、今日はリラックスしながら、のんびりとピンポイント式に会場をめぐった(それでもたいへんなヴォリューム)。1回目となる今回の見物では、これまでの展覧会で出会った数々の好きな作家、好きな作品を、《躍動する魂のきらめき》というくくりであらためてじっくり見なおす、ということに意識を集中させる。あと人生で何度見られるかというくらいに、大好きな絵、岸田劉生の《壺の上に林檎が載って或る》に神戸で再会できたり、劉生はもちろん、萬鉄五郎、村山槐多や関根正二にあらためて圧倒されたり、「MAVO」のこと、同時期の日本画のこと、日本写真史などなど、これまでの展覧会でむやみに心惹きつけられてならないことがギュッと詰まっていて、むやみやたらに興奮して、しまいにはグッタリしてしまった。でも、なんとも心地よい疲れ。村野藤吾の《あやめ池温泉》のくだりは関西で見て格別だった。建築の展示は、1930年代に清水栄二が設計した旧高嶋邸の直後に訪れてみると、なにかと臨場感たっぷり。


灼熱の下を歩いたあとでだだっぴろい展示室でむやみに興奮して、すっかりくたびれてしまったけれども、日頃最大の関心事項「1930年代」あれこれの前史としての日本近代文化を彩ったいろいろなもの、今までの展覧会で見てきたことを相対化させる機会を得た感じで、図録をじっくり読みこむのがたのしみ、そして、松戸でふたたびこの展覧会を見直すとしようと思って、未来のおたのしみが増えたのはよかった。しかし、展覧会そのものはなかなか刺激的だった一方で、強大なコンクリート作りの真新しい美術館は妙に落ち着かなくて(旅行者でなかったらまた違った印象だったと思う)、おなじ埋立地の無機的な場所にありつつ小磯良平美術館の好ましさといったらどうだろうと、ますます小磯良平美術館に愛着を覚えてしまうのだった。



えいっと立ち上がって、ふたたび灼熱の道を歩いて、岩屋駅に戻る。JR 灘駅から神戸駅へ行き、川西英の版画を追体験、という先ほどの思いつきは諦めて、へなへなと阪神電車に乗って、三宮へ。兵庫県立美術館で時間も体力も使い果たしてしまった。本来だったら、坂道を歩いて徒歩10分の阪急電車の王子公園まで歩くところなのだけれども、ままならぬことである。阪神電車を三宮で降りたら、今度は阪急電車に乗るのだ。阪神間に出かけるたびに、阪神電車阪急電車に乗って、それだけでいつもおおよろこび。 




三宮で阪急電車に乗りときは、西口改札へ行き、階段のドーム状の天井にうっとりするのが毎回のおきまり。当初の予定では、十一谷義三郎への思いを胸に神戸文学館を再訪する予定であったけれども、兵庫県立美術館で疲れ果ててしまったし、時間の余裕もあまりなさそうなので、あえなく断念。と、神戸文学館をあきらめたおかげでちょっとばかし時間が浮いた。前々から気になっていた西口改札の手前にあるコーヒーショップでひと休みしようかなと思いついて、力を振り絞って、ここまでやってきた。窓際のソファに座って、しばし放心。



阪急電車の特急で梅田へ向かう。いつもながらに、阪急電車での移動もしみじみ嬉しいのだった。三宮での喫茶と車内での移動で、だいぶ疲れが癒えてきた。電車は早くも十三を通過、淀川を渡る瞬間を満喫して、前回の関西遊覧の折(id:foujita:20090301)、北尾鐐之助著『近代大阪』(創元社、昭和7年2月)を参照しながら中津付近を歩いたときの歓びは今でもとっても鮮烈だ、中津の跨線橋が車窓から間近に見えたとき、淀川を渡っているときと匹敵するくらいに興奮だった(ああ、近代大阪!)。あとになって、編集工房ノアの住所が中津だと気づいて、ますます中津に愛着がわいたものだった。終点の梅田に到着、いつものように、梅田駅の壮観なホームを満喫すべく、先頭まで歩きたいところだったけれども、「阪急古書のまち」にゆくには、後方の改札が便利ということに幾度かの関西遊覧を経て、やっと気づいたのだった。




花月亭九里丸『すかたん名物男』(新生プロダクション、昭和31年12月25日発行)。装釘・さしえ:藤原せいけん。何年も前から杉本梁江堂に来るたびに欲しいなあと思っていた『すかたん名物男』。今回の遊覧でやっと買うことができて、やれ嬉しや。こういう本は杉本梁江堂で買うのがいかにもふさわしい。


ガスビル食堂でワインを飲んで、「モダン大阪」観光。北浜から中之島へ。

堂島界隈の定宿にチェックインして、重たい荷物を置いてスッキリ、5時半をまわったところで、意気揚々とふたたび外出。秋分の一ヶ月前、日没まではまだだいぶ時間があるのがありがたい。



大阪遊覧のたびに、肥後橋方面をみやって、朝日新聞社のモダンな社屋と向いの建物の鉄塔を見るのが大好きだったけれども、鉄塔の方はすでになくなっていた。朝日新聞社の建物ももしかしたら今日が見納めかなと思う。



と、渡辺橋を渡って、朝日新聞社を右に見上げつつ肥後橋を渡って、四ツ橋筋を直進し、平野町で左折、阪神高速の高架の下をくぐって、御堂筋方面へ向かう。ほどなくして、ガスビルの裏手に出て、思わず小走り。





『ガスビル食堂物語 モダンシティ大阪の欧風料理店』(大阪ガス株式会社総務部発行、2004年6月1日)。全107ページ、オールカラーの小冊子(http://www.osakagas.co.jp/gasbuil/index.htm)。このたびの夏休み関西遊覧の直前に張り切って入手。夏休みのおかげで、今回はめったにない平日の関西遊覧が実現、せっかくなので平日にしか行かれないところに出かけたいなと思ったところで、まっさきに思いついたのが、前々から気になっていたガスビル8階で今でも営業の「ガスビル食堂」のこと。ありがたいことにこちらはお盆も営業中、晩餐の予約が済んでほっと一安心したところで、『ガスビル食堂物語』を取り寄せて、おそるおそる繰ってみると、たいへん充実したつくりになっていて、至れり尽くせりで大感激。これはもう、つべこべいわずに『ガスビル食堂物語』に身をゆだねるようにして、ミーハーに徹して、ガスビルを大いに満喫することに決めた。

御堂筋に面した平野町の角に、この巨大なビルが三〇年代のはじめに出現したというのは注目すべきである。この地点は、一九三〇年代ごろに重要な意味を持つようになった。すなわち、御堂筋という新しいメイン・ストリートと地下鉄がここを通るようになったのである。御堂筋は一九二六年に梅田から工事がはじまり、一九三〇年ごろには平野町から本町あたりまでできていた。さらに一九三〇年には、御堂筋の平野町角で地下鉄の盛大な起工式があり、一九三三年には梅田から心斎橋まで開通した。


海野弘著『モダン・シティふたたび――1920年代の大阪へ』(創元社、昭和62年6月1日)- 「大阪ガスビル」】

「モダン大阪」探索の必携書、海野さんの本で読んで以来、御堂筋を通るたびに、地下鉄開通とガスビル施工の昭和8年の大阪を思って、ウキウキしていたものだった。日頃の最大の関心事、「1930年代・東京」探索の軸を昭和8年に設定している(というほどのものでもないが…)身としては、昭和8年の東京と大阪を同時代的にとらえる真似ごとをするうえで、地下鉄とガスビルの存在は大阪遊覧最大の歓びのひとつだった。今回は念願のガスビル食堂へ! と、出かける前から大興奮なのだった。



と、そんなこんなで、ガスビル食堂でのワインをたのしみに、堂島界隈からズンズンとここまで歩いてくると、





ガスビル裏手の角、写真のテラス部分が見えてくる。ガスビル内部には昭和8年の施工当時から、2階から4階までの吹き抜けで「ガスビル講演場」があり(昭和40年に廃止)、その映写室が下の写真に写る張り出し部分。かつて講演場から映写室の下にあるバルコニーまで、非常時に避難できるように非常階段が設置されていた、ということを、『ガスビル食堂物語』で知ったばかりだったので、いざ目の当たりにして嬉しくてたまらない。ガスビル演芸場の施工記念として、文楽の『寿式三番叟』の上演があったとのこと。文楽といえば、ガスビルの裏手の右後方あたりに御霊神社がある、ということに今回はじめて気づいた。大正15年11月に御霊神社の文楽座が火災で焼失のあと、文楽は昭和2年から4年まで道頓堀の弁天座で興行(谷崎の『蓼喰ふ虫』!)、昭和5年1月に四ツ橋文楽座が開場する(溝口の『浪華悲歌』!)。「モダン大阪」のトピックとして、四ツ橋文楽座は大きな存在だ。と、「文楽とモダン大阪」ということをあらためて思う。





ガスビル講演場(1933)、『ガスビル食堂物語』より。昭和8年施工の有楽町の蚕糸会館内部のホールで新劇公演等々が催されていた一方、おなじく昭和8年施工の御堂筋のガスビル内部の講演場でも様々な催しが。昭和11年からは映写機が輸入され、映画上映会も催されていたとのこと。『ガスビル食堂物語』所収の数々の文章のなかで、とりわけ胸躍ったのは、元吉本文芸部の竹本浩三による「ガスビル講演場と私の青春(http://www.osakagas.co.jp/gasbuil/leaflet2/hito05.htm)」。昭和9年頃の、エンタツアチャコの高座写真が長らくその場所が不明だったのが、つい最近、ガスビル講演場だと判明したのだという。内海重典や長沖一をガスビル講演場の試写会に無理やり誘って、ガスビル食堂でカレーやビールをねだったという挿話ににんまり。





いつもガスビルは御堂筋沿いを歩いて通るばかりで、まっさきに上の写真の角のフォルムが視覚に入っていたのだけれども、今回は初めて裏手からビル正面へと出ることになった。裏手からジワジワと、角のフォルムに出会う瞬間が格別で、そのいかにも1930年代という感じの、窓の直線的フォルムと建物の流線型との調和がすばらしい。この最上階部分が、これから出かけるガスビル食堂なのだと、見上げてうっとり。




ガスビルに来たのが嬉しいあまりに、御堂筋を渡って、全体を見上げる。鉄塔の下の最上階でこれからワインと思うと、ふつふつと嬉しい。



……などと、気もそぞろに、ちょいとわかりにくい入口から建物内部に潜入し、食堂専用のエレベーターにのって、いざ8階の食堂へ。さすがの格調の高さに背筋がピンとのびる。ロビーのクラシカルな内装の研ぎ澄まされた空間が期待どおりにすばらしい。清水登之の油彩が壁にかけてあるのを見て、中山岩太の写真集にあった清水登之の家族写真を思い出した。


ガスビル食堂のテーブルで食前酒のシャンパンを飲んだ頃、窓のそとはちょうど日没という頃。ワインととともに、食が進むうちにいつのまにか、窓の外はすっかり日が暮れていた。日没とともに晩餐が進んでいくというのは、夏休みならではのゆったりしたひととき。いつもは赤ワインだけれども、今日は白ワインをグビグビ飲んだ。ちょっとした非日常を満喫。居心地もよく、雰囲気もよく、食事とワインもよく、窓の眺めも最高。もう、言うことなしだった。




『ガスビル食堂物語』より、《ガスビル食堂からは、再建された大阪城生駒山が望めた》。大阪城の再建は昭和6年なので、大阪城の眺めも「モダン大阪」のトピックなのだ。高層ビルがたちならぶ現在はこんな感じの眺望は無理だけれども、ガスビルの流線型に沿った窓からの視覚の独特さは今もまったく変わらない。ガスビルでワインを飲みながら満喫したのは、なによりもこの「流線型」だった。ああ、モダン大阪! と、馬鹿の一つ覚えでいつまでも嬉しい。



ゆっくりと食事とワインの時間を満喫したあとで、お店の方のご厚意で、『ガスビル食堂物語』で知って気になっていた食堂一角にあるバーカウンター、現在はバックヤードとして使用の、創業当時の姿をそのまま残しているバーカウンターを見せていただいて、最後の最後まで感激だった。東京ステーションホテルのバーのことを思い出した。




ワインを飲んでいい気分で外に出ると、とっぷりと日が暮れている。日没直前に入ったガスビルには日が灯っていて、夜の御堂筋に燦然と輝いている。最上階の食堂部分がとりわけ明るいのだった。






今回のガスビル食堂来訪記念に買った紙モノ、昭和11年4月11日の、ガスビル食堂のメニュウ。いつものように「紙上のモダニズム」的歓びにひたる。大阪城をあしらった表紙のデザインがすばらしい。かつてガスビル食堂の窓から見えた大阪城は、ガスビルともども、モダン大阪のシンボル的存在だったのだなとあらためて思う。





ガスビル食堂でのおみやげのマッチを、上のメニュウを開いて置いてみる。サイフォンでコーヒーを入れるのがこのところ、休日の午後のおたのしみとなっている。おのずとマッチ収集がたのしくなった。マッチは日用品。





いつもよりだいぶ早めの晩餐だったので、まだまだ時間はたっぷり。平野町、道修町を散歩しながら、堺筋に出る。





ガスビルと同じく、安井武雄の設計による高麗橋野村ビル。こちらは1927年の建物で、ガスビルとおなじく、角の流線型が素敵だけれど、ここに施された装飾が、1920年代から1930年代までの過渡期という感じがする。1階は「サンマルクカフェ」なので気軽に建物観察を満喫することができるのだけれども、ここでの喫茶はまた次の機会に。安井武雄の1924年の建物、大阪倶楽部の観察もまた次の機会に。



と、堺筋を北上して、北浜に出る。土佐堀を渡って、中之島を歩いて、堂島へ戻ってゆく。川沿いの風が心地よい。




中之島公会堂の前を通りかかると、こちらの地下食堂「中之島倶楽部」でも、ガスビルとおなじく、人びとが晩餐をたのしんでいる真っ最中。喫茶のみでも可とのことだったので、こちらで紅茶を飲んで、しばしくつろいだあとで、堂島沿いをゆっくり歩いて、ホテルに戻って、本日の遊覧はおしまい。



ホテルのバーでギムレットを飲みながら、《躍動する魂のきらめき――日本の表現主義》展の図録をうつらうつらと眺めて、夜が更けた。