文楽の休日

落語メモ

まず昨日の書き忘れから。「かまくら落語会」会場の同じ通り沿いにある島森書店に初めて入った。こんな本屋さんが近所にあるとどんなにいいだろうというふうな理想的「ふつうの本屋さん」。発売がとても待ち遠しかった『志ん朝の落語1』を買った。このシリーズの刊行を知ったのは7月の朝日名人会の会場にて、わーいと大喜びして9月になるのが待ち遠しい! と当時思ったのだけれど、もうあっという間に9月なのだった。その朝日名人会プロデューサーでもある京須偕充さんの解説付きの志ん朝落語、ディスクで聴いたことがあるのがほとんどだけど、なんといっても数々の落語の名ディスクを生み出した京須偕充さんの生み出した書物というのがまず嬉しいし、志ん朝さんがまるごとパッケージされている感じで早くも頬擦り本なのだった。

この本を枕元において寝て、今朝起きぬけにペラペラめくった。ふと「崇徳院」を読む。いったい何度ディスクで聴いただろうというお気に入りの一席なのだけど、禁欲的に活字を追うのもなかなか乙なのもの。後半「瀬をはやみ〜」がさながら呪の言葉のようになって江戸の町中をさまよう熊さんの袋小路は、ロメールの『獅子座』の男がパリをさまよう白黒映像(不協和音のヴァイオリンを背後に)の感じにとてもよく似ている。

今日は一日中、国立小劇場にて文楽見物。その第一部と第二部の間のわずかの休憩時間に見学に行った。国立演芸場の展示室はわざわざ出かけるほどのものでもないけれども、近くに来たならまあ見てってもいいんじゃないかという程度の展覧会で、芝居見物のついでに出かけるのに程よい感じ。

文字どおり咄家による芝居「鹿芝居」に関する展示で、鹿芝居というと、今年1月ここ国立演芸場正雀さんたちの『源氏店』を堪能したばかり。こんなに面白いなんて! と、わたしにとっては初めて知った鹿芝居のたのしみだったのだけれども、国立演芸場でも初めての催しだったとのこと。鈴本では年末の恒例行事なのだそうだ。

圓生口演の「九段目」のマクラに鹿芝居のエピソードが語られているとのこと、圓生の「九段目」しっかりとディスクを所有しているというのに、うっかりしていた。これを機にマクラに耳を傾けてみようと思った。その圓生、『絵本太功記』の操が似合い過ぎるくらいよく似合っていた。今回の展示で一番面白かったのが、伝説の昭和35年の鹿芝居『忠臣蔵』のプログラム。六段目のお軽が志ん生で勘平が正蔵圓生が七段目の由良之助でお軽が小さん! 考えただけでもニンマリ。プログラムに掲載のそれぞれの噺家のコメントがそれぞれたいへんナイスだった。

文楽メモ

午前11時から午後9時過ぎまで『義経千本桜』を見物。三大名作では唯一文楽の通しを体験したことのない演目だった。

大序の「仙洞御所」の荘重な語り出し、冒頭の「忠なるかな忠、信なるかな信」の文句を耳にしただけでシャンと背筋を伸ばしてしまいたくなる。荘重に荘重に静かに進んでいくけれども、初音の鼓といった物語全体を貫くモチーフはきちんと提示されている。「千本桜」というタイトルの言葉も提示される。通し狂言独特の浄瑠璃の世界に埋没していく絶好のプロローグなのだった。

……などなど、細かく書こうとすると収拾がつかなくなってしまうが、それにしても浄瑠璃独特の薄暗さを伴った甘美な時間というのはいったい何だろうと不思議な魅力に今回も思う存分ひたった。一番のゾクゾクはやっぱり『渡海屋』で知盛が正体をあらわして義太夫が謡ガカリになって下座でも謡曲風に鼓が鳴ったりしているときの玉男さんの人形の動き。それから、日頃から忠信を見るとそれだけで胸がいっぱいになってしまうので、忠信登場の瞬間はとっても嬉しく、静との道行の場面がその最高潮だった。文楽の道行がわたしは大好きだ。『河連館』も歌舞伎しか知らない身としてはとても興味深く、文楽ならではの面白さがあった。狐の正体をあらわすところの、舞台がちょっと妖しくなってくる独特の感じがとてもよかった。

と、全編思いっきり堪能したかのように書いているが、ああ! なんということ! 第二部の『すし屋』のところでうっかり何度か寝てしまったのだった。文楽で寝たことなど今まで一度もなかったというのに、いったいどうしたのだろう。若葉の内侍のクドキのところと手負いの権太の「血を吐きましたーッ」までの記憶が抜け落ちているのだった。いつも思うけれども『すし屋』もいいけれどもその前の『椎の木』のところもなんて美しい場面だろうといつも思う。浄瑠璃のちょっとしたところにあらわれる生活感のようなものが大好きだ。