ひさしぶりにお能を

国立能楽堂20周年記念公演、『道成寺』を見物に行った。シテは友枝昭世能楽堂にたどり着いた頃は狂言の『素袍落』の終盤のころ。見たかったけどやっぱり間に合わなかった。去年の松緑襲名興行の歌舞伎座で見た富十郎の『素袍落』がとてもよかったので、ぜひとも狂言でもと思っていたのだが。でも、開演中の能楽堂のシンとしたロビーのソファでぼーっとするひとときがなんだかよかった。

今週はずっとネムネムイ病だし、日曜日の『すし屋』でのおのれの醜態を思ったりで、寝てしまわないかとても心配だったけど、それは杞憂だった。お正月以来のひさしぶりのお能、はじめて能楽堂に入った日のような高揚感でずっと気が張りっぱなし。それに演目は憧れの道成寺。前ジテの乱拍子のところのながーいながーい緊張感、パッとあっという間に鐘が落ちるところの急激な展開にゾクゾク、後ジテが登場するところではわかっていたはずなのにその姿にあっと驚き、前ジテで着ていた唐織が今度は腰に巻きついているその視覚的効果にあっと目を見張るがあっという間にシテは唐織を捨てて、パーッと橋懸を後退していたかと思ったらまたパーッと戻って柱巻のところで静止する、それら一瞬一瞬の見事さ! 

決して「ワオ!」と面白がっているわけではなくて、ただぼーっと眺めているだけなのに心から離れない。お能ならではの不思議な感覚をひさしぶりに味わって、全身が浄められたかのような感覚だった。この感覚はやっぱりたまにでも味わいたい。映画とか落語みたいにしじゅう出かけるわけにはいかないけれども、この先も年に1度か2度、たまに思い出したように能楽堂に出かけたいなと思う。

歌舞伎で日頃からこよなく慕うのが道成寺ものだった。後ジテの蛇体の姿は歌舞伎では最後にほんのおまけにつくという感じで、歌舞伎での眼目は、前ジテの白拍子花子のさまざまな姿態で「女」というものが重層的にひとりの女形の身体にあらわれるところにある。そんな歌舞伎ならではの特色というか歌舞伎の持ち味が能を見ることでくっきりとあらためて認識できて、歌舞伎への愛着があわためて湧くのもたのしい。てな感じで、帰宅後は『娘道成寺』の長唄を流している。