教文館にて

『東京セブンローズ』がもう面白くて面白くて、と雨の夜の銀座にて気もそぞろに教文館に入った。暮しの手帖の『戦争中の暮しの記録』を立ち読みしようと思ったのだ。と、そのあとあちこちの棚を見てまわり、最後に歌舞伎書コーナーへ。戸板康二の復刊『歌舞伎十八番』(ISBN:4434034812)が5冊も売っているのを見てにっこりした直後、上村以和於著『時代のなかの歌舞伎 近代歌舞伎批評家論』を発見、えー! と手に取ってレジに直行、教文館でいい感じの歌舞伎本を見つけると、奥村書店で1割引きくらいで売ってるかもーとせこい料簡をおこすのが常なのだが(そして結局買い損ねる)、今回ばかりはそんなことは言っていられなかった。

歌舞伎学会誌「歌舞伎 研究と批評」の連載が1冊になったもの。戸板康二を読むようになってそんなに間がない頃、神保町の八木書店で『折口信夫坐談』をえいっと買ったあと、三省堂だったか通りがかりの本屋に入って、なんとはなしに「歌舞伎 研究と批評」を立ち読みした。この本を手にしたのはそのときが初めてだった。すると、上村以和於さんの「近代歌舞伎批評家論」に折口信夫が取り上げられていたのだった。あまりのタイミングのよさにびっくり。学会誌で結構値が張るのに、即買いしてしまった。以後、去年まで購読していた。まっさきに開くのは上村さんのページだった。とかなんとか、あとで「戸板康二ダイジェスト」に書くべきことなのだけれども、このところ相次いで折口信夫にぶちあたっていたので、その因縁というかまあ偶然なのだが、ちょっと姿勢をただしたいような感じなのだ。

ぜひとも思い起しておく必要があるのは、六二連の評判記が終焉し、三木竹二や鬼太郎や青々園や、松居松葉や杉贋阿弥等が劇評を書き始めるのが、ほぼ明治二十年代を端境期としており、それは小説にせよ、俳句・短歌にせよ、絵画にせよ、要するに日本の近代文芸・近代芸術の一大転換が根元的な次元で起りはじめたのと、まったく時期を一にした現象なのだということである。歌舞伎ひとりがそうした思潮の外にいたのではない。すべては、みな通底する時代感覚の所産なのだ。(序章「劇評、時代をあらわすもの」より)