談志師匠の『黄金餅』と『ぞろぞろ』

小沢昭一著『話にさく花』(ISBN:4167175061)に、日頃から大好きだった落語の『黄金餅』における下谷の山崎町から麻布までの道中を順々に言い立てるくだりのことが書いてあって大喜びしていたあとで、談志師匠のディスクで聞くと従来の志ん生のように江戸の道中をたどったあとでなんと現在の東京の道中まで語ってくれているということを教えていただいて、なんだかもう、むやみにやたらに大感激だった。それにしても談志師匠の才気!

なんていうことがまだまだ記憶に新しい先週末のこと、図書館の落語ディスクコーナーを物色していたら、なんと! くだんの談志師匠の『黄金餅』があるではありませんか! ということで、わーいと借りてきて、さっそく聴いてみた。

教えていただいていた通りに、志ん生ふうに「ワアワアワアワア言いながら下谷の山崎町を出まして……」と道中立てが繰り広げられたあとで、「これを今の東京で言うと」というふうになっている、この展開を当初から知っていたはずなのに、知っているのと実際に聴くのとでは当たり前だが大違い、ここのくだりを実際に耳にしたときの高揚感といったらなかった。なんだか目がウルウルだった。

このディスクは昭和44年の高座を収録したものなので、談志師匠は若いし、東京の町並みも今とは違っている。鈴本では昼席のトリが談志で、黒門町では桂文楽が健在だし、神田の立花亭はもうすでになかったけど今よりは記憶はまだ鮮明だし……といった感じに、ここで語られる昭和44年当時の「今の東京」を30年以上たった現在聴いていると二重の意味で面白く、そしてなんとも眩しい。戸板康二の『芝居名所一幕見』という本のことを思い出した。歌舞伎の舞台になった東京各所をめぐって、舞台の写真と現在の写真とを対照させている本なのだけども、『芝居名所一幕見』でめぐっている東京はちょうど50年前の昭和28年の東京というわけで、今この本を繰ってみると二重の面白さがあるのだった。セピア色の昭和20年代の東京の方にむしろ視線がいってしまったりする。談志師匠の『黄金餅』は話芸版「芝居名所一幕見」だった。それにしても、談志師匠の才気!

というわけで、談志師匠の『黄金餅』には大感激だったのだけれども、一緒に収録されている『ぞろぞろ』の方にもびっくりだった。ライナーの解説によると、『ぞろぞろ』は正蔵がよくやっていたちょっと陰気な噺。しかし談志師匠はこの噺をちょっとアレンジして、神様の方を主人公に仕立てて、荒物屋の老夫婦をしっかり者の若い娘と妻に先立たれたお父さんに直した。主人公は神様だけど、この神様は女好きだったりして全然神々しくなくて人間っぽい。荒物屋の父娘の様子がなんとも愛らしい。こう直しただけで従来の『ぞろぞろ』がガラッと変ったという。うわー、それにしても談志師匠の才気! と、同じ言葉を何度も繰り返したくなってくる。

『ぞろぞろ』は一度、鈴本でこぶ平の高座で聴いたことがあった。こぶ平を聴いたのはそのときが初めてで、とても品があり、さらに風韻がなんともいえなくて、「いいな、いいな」と思った。今でも鮮明に記憶に残っている高座。そのときの『ぞろぞろ』も談志師匠と同じように、父娘の荒物屋にちょっとだらしない神様が登場人物だったと思う(たしか)。となると、かえって、正蔵の『ぞろぞろ』はどんな感じなのかが気になってくる。演り手が三代目小円朝と八代目正蔵のふたりだけ、「いかにも明治の生き残りがやりそうな噺」、陰気な『ぞろぞろ』とはどんな感じなのか。

小沢昭一の『話にさく花』の「話術話芸の不徹底的研究」で言及していた、徳川夢声の『話芸』で紹介されているエピソード、あるフランス俳優が「アリとキリギリス」を二通りに朗読してまったく正反対の話として聞かせてしまったというはなしがある。このことを談志師匠の『ぞろぞろ』でまっさきに思い出したのだったが、談志師匠の『黄金餅』へたどり着いたのは、小沢昭一さんの書物がそもそもの発端だった。結局、もとの小沢昭一さんへと戻っていったというわけで、小沢昭一さんの『話にさく花』の一連の芋づるは実にたのしくて、大昂奮のひとときだった。

晶文社ワンダーランドを見てみたら、『小沢昭一百景』の紹介がすでに出ている。キャー、一刻も早く手に入れたい!

id:mittei-omasa さーん、MD郵送しましたよー。なんて、こんなところでリレーをやっている場合ではないのでした。