歌舞伎座一幕見、仙石山から赤坂へ

歌舞伎座の幕見席で富十郎の『船弁慶』を見物した。開場ギリギリにたどり着いたものの何とか座れてよかったよかった。それにしても昼の部ではなくて夜の部だったら、毎日とは言わないまでも週に2回くらいは見物に行くのになあと少し残念だ。などと、何をそんなに燃えているのか自分でもよくわからぬが、富十郎の『船弁慶』、できるかぎり見に行こうと思っている。

歌舞伎見物においてもっとも嬉しい瞬間は何だろうと思い起こしてみると、わたしの場合は富十郎吉右衛門が共演している舞台と、富十郎が六代目菊五郎的な役柄を演じているときがまず挙げられる。今年は総じて、歌舞伎に対する感度が鈍ってしまって以前ほどは楽しんでない状態で自分でも無念なのだったが、それでも年明けの国立劇場の『双蝶々曲輪日記』と3月の富十郎の『吃又』はとても堪能できたから、まあよかったと思う。

幕見席のあと、しばし裏のドトールでのんびりして、それから日比谷線に乗り込んで神谷町で下車。先日さる方からのメイルで教えていただいて、さっそく仙石山散歩を実行に移したのだった。仙石山とは、戸板康二が学生時代にちょっとだけ住んでいたアパートのあった場所で、その挿話が前々から大好きだった。場所は神谷町を下車したところの虎の門5丁目にあたる。永井荷風の偏奇館のあった場所とけっこう近くで、戸板康二は一時期荷風とご近所だったのだ! ということは今までまったく見逃していた事実で、このことはたいそうわたしをワクワクさせていたのだった。そんなこんなで、このところ『断腸亭日乗』の昭和12年のところを熟読していた次第。

神谷町を歩いたのはよくよく思い起こしてみると今日が初めてだ。虎の門5丁目の町内会看板には「仙石山町会図」というふうに書いてあって、「仙石山」という名称は健在なのだった。地下鉄を下車してしばらく歩くとすぐに上り坂を歩くことになってまさしく「高台」という感じ、後ろを振り返ると青空の向こうに東京タワーが目の前に見える。戸板康二が書いていたような雰囲気を意外なほど鮮やかに感じることができた。歩いていく途中、ふととある表札が目に入り、そこが芝翫の家なのでびっくり。そういえば「神谷町!」なのだった。

泉ガーデンまでちょっとした散歩道になっていて、木々の下を歩くのがとても気持ちよかった。と、いたく穏やかな日曜日の午後だった。本当は泉屋博古館分館を見物していくつもりだったのだが、偏奇館の跡はどのあたりかしらなどと思っているうちにうっかり通り過ぎてしまった。泉ガーデンの片隅にかろうじて「偏奇館跡」の碑を発見。4、5年ほど前に一度、偏奇館をたずねてこのあたりを歩いたことがある。日曜日の午後のサントリーホール内田光子さんのリサイタルを聴いたあとに歩いてみた。当時はこのあたりは再開発中のまっただ中で、偏奇館のあたりは立入り禁止で人通りも皆無で野良猫がたくさんいて、ちょっと異様な光景だったのを覚えている。

というような追憶をしているうちにサントリーホールのあるアークヒルズの脇にたどり着いて、そのまま赤坂へ向って歩いた。久保田万太郎の終の住処は千代田線の赤坂駅からサントリーホールに向かう途中にある。たぶん、その家ももう残ってはいないだろう。……などと、戸板康二永井荷風久保田万太郎と、なにやら「文学散歩」っぽいことになってしまった。そのあとは、赤坂から千代田線に乗って表参道で下車。ちょっとしたいい買い物が出来てコーヒーもおいしくて、美術館は見逃してしまったけれども、突然来ることになってしまった青山は言うことなしという感じだった。

仙石山アパートに、そのパレスの二人の女性が訪ねて来た。日曜日の午後、小野、池田、ぼくの三人で歓迎したが、人数がちょうどいいから「父帰る」を脚本朗読しようということになった。女性がおたか、おたねは当然として、賢一郎が池田君、新二郎がぼく、小野さんが父親という配役ではじめた。「おたかは居らんかの」のセリフの所に来たら、小野さんが笑いだして、止まらない。とうとう、朗読はそこで流れてしまった。池田君が苦い顔でいった。「仕様のないやつだな、これじゃ『父笑う』じゃないか」(戸板康二著『わが交遊記』小野英一より)