「四月と十月」を眺めた

foujita2003-11-04


いつのまにか11月になっている。先月はどうも力が出ないというか無気力というか眠くてしょうがないというかなんというか、総じて冴えない感じだった。今月こそは、今月こそはシャキッとしたいものだ。……と、月が変わるたびに毎回思うこともしょうこりもなく思いつつ、線路沿いを帝国ホテルに向って歩いた。このあたりのごちゃごちゃした道筋がなんだか好きだ。このまま新橋まで歩いていきたい気もしたけれども、帝国ホテルの手前で左折、線路をわたって泰明小学校の前を通って右折、月光荘へ行った。先月買い損ねていた「四月と十月」の最新号を買った。

新しい「四月と十月」を買って急に浮き浮きしてきて、通りがかりのコーヒー店に寄り道して、さっそくページを繰った。「卓上画廊」という趣のこの雑誌、すみずみまで行き届いていて、なんて素敵なのだろう。それぞれの作品を眺めるのが愉しいのは言うまでもなく、添えられている文章、その他いくつかの記事がとてもいい。電車の車窓をぼんやりと眺めて頭がからっぽになっていくような感覚でスケッチブックに絵を描く、というくだりとか、絵と音楽、音の風景を感じることができる抽象画のこととか、いくつかのくだりを断片的に目にしただけでもっといろいろな作品を見たいという気になってくる。三岸節子さんのこと、マダガスカルを写す堀内孝さん、えびな書店による「美術の本」などなど、どれもこれもがとてもよかった。

旭屋書店に寄り道。雑誌売場を通りがかろうとしたそのとき、とある雑誌の表紙が目に入ってびっくり。昨日の独演会のとき、小三治がマクラで金明竹のことをしゃべっていたとき、雑誌売場にて男女二人が表紙に写っているいけすかない雑誌の背景に金明竹が使われているのを見かけた、だいぶ大きかったからあれは偽物かも、というようなことを言ってたのだったが、この雑誌のことを言っていたに違いない! とばったり遭遇したのだった。と、しばし「東京カレンダー」の表紙を眺めて、こうしてはいられないと急に落語のことを思い出して山野楽器へ移動。馬生師匠の「つづら」を買いに来たのだったが、よくよく見てみると、どうやらディスクにはなっていないようだった。がっかり。

教文館に行ってみると、待ちに待った晶文社の「小沢昭一百景」の第1巻が売っていた。と、心の隙き間が埋まったところで地下鉄に乗って、買ったばかりの小沢昭一の本を繰った。

購入本