夜の恵比寿徘徊

朝は喫茶店でコーヒー。久生十蘭の『予言』を何年ぶりかで読み返した。昨日借りた『彼等の昭和』で、『予言』の登場人物に長谷川りん二郎を類推しているくだりがあって、ふつふつと嬉しかった。急に読み返したくなって思わず早起きをしてしまった。久生十蘭にはいつも「アナロジーの快楽」という言葉がつきまとう。

先日、木村伊兵衛土門拳の展覧会に興奮していたところ、恵比寿の写真美術館で木村伊兵衛の弟子筋にあたる田沼武能の展覧会が催されていることを教えて下さった方があって、ワオ! と大喜びだった。先週届いた図録には「銀座百点」が初出の田沼武能と藤森武の対談が載っていて、それにしてもシンクロ具合にびっくり。そして、写真美術館では田沼武能のみならず、中島健蔵の写真展も催されていて、これも見逃せない。展覧会はいずれも今度の日曜日に終わってしまう。木曜日と金曜日だったら夜8時まで開館しているので、見逃さないように週末は避けた方がよかろう、というわけで、日没と同時にいそいそと恵比寿へお出かけ。そして、いずれも大変満喫。もうちょっとゆっくり見られる時間に出かけるべきだったかなあと思うけれども、無事に見られて本当によかった。

このところクサクサしていたのが、写真展を見学したことで急に気持ちがすっきりしてきて、ちょっと外を歩きたい気分になった。今日はだいぶあたたか。恵比寿駅からテクテク歩いて、ユトレヒト花森安治の展示を見に行った。ほんの物見遊山のつもりだったのだけれども、これも実際に見ておいてよかった! としみじみとあとで思った。会場にうっすらと流れていたモーツァルトのヴァイオリンソナタを家に帰ってまっさきに再生した。今も聴いている。

12月に河野鷹思展を満喫した直後に教えて下さった方があって、名取洋之助の催しに出かけて、年が明けて日本工房の登場人物、木村伊兵衛土門拳の写真展に興奮して、そのあとは木村伊兵衛の弟子筋の田沼武能の写真展、しかも図録で「銀座百点」初出の田沼武能と藤森武の対談を読んだ直後に見学するめぐりあわせとなった。と、しつこく繰り返したくらいに幸福なめぐりあわせだった。幸福だったのはめぐりあわせだけではなくて、写真展そのものも幸福だった。

まずは、戦後の子供たちをとらえた写真を見ることになるのだが、その昭和30年ごろという時代もよければ、浅草や銀座などの繁華街、佃島などなど、東京下町といった舞台装置がまずはべらぼうによい。佃島の「真知子巻」の少女、紙芝居を真剣に本当に真剣に凝視する子供、本郷で髪結いごっこに興じる少女、三社祭での「いなせな娘と現代娘」の対比、などなど、眺めて幸せになってくる写真ばかりだった。2番目は待ってました!の文士と美術家の肖像、これもまあ、眺めて嬉しい写真ばかりで、坂口三千代さんを挟んで檀一雄松本清張がバーの椅子に坐っている写真とか、戸口にたたずむ幸田文の美しさ、キャッチボールする子を覗く山口瞳をとらえた写真の構図の見事さ、猫をちらりと嬉しそうに見やる大佛次郎吉田健一がウィスキーグラス片手に煙草の煙りモクモクとなっている写真のかっこいいこと! などなど、ちょっと挙げようとすると全部挙げてしまうんじゃないかというくらいに眺めて嬉しい写真ばかり。ベレー帽かぶって海辺にいる堀田善衛もかっこよかった。犬と一緒の松田正平とか、パイプがきまってる熊谷守一とか。説明パネルに、撮影の際に一体一で人物に向かうことで感じる「知的興奮」のことが書いてあったけれども、まさしくそんな「知的興奮」のようなものを分けてもらった感覚だった。

このあとも、世界の写真がわんさと続いて、見ていて幸せになったり世界の不幸を目の当たりにしたりの写真がわんさと続いていくわけだけれども、たくさんの写真を見ることでおのずと写真家が何を好んで撮っているのかが漠然と感じられてくるのがたのしかった。写真のなかにはさまざまな現実があると同時に、それぞれに写真には写真家自身が投影されている。その視線、その場所、その時間などといった、投影されている写真家自身が今回の展覧会、とても好ましかった。見物することでだんだん無心に写真そのものにひたってしまって自分自身のことをちょっと忘れてしまう。その心地よさが無類だった。あまりうまく言葉にできないけれども、なんだか本当に幸福だった。

と、田沼武能写真展に上機嫌になって、次は3階。こちらもしみじみたのしかった。文学者の写真展ということで、文学展と写真展とがいい具合に混在している、その混在具合がすばらしかった。展示の仕方もスナップ写真がちりばめてあるかと思うと、関連書籍が並べてあるコーナーもその並べ方が洒落ていて(手にとって見られればもっとよかったけども)、大正を経た昭和という時代、そのモダニズム、古いタイプの西洋趣味知識人が健在だった時代の香気のようなものが根底にあって、空間全体がすばらしかった。展示担当者さんのセンスにブラヴォー! の一言だった。

まずは、大正文化サロンとしての新宿中村屋の紹介があって、今回新発見されたという中村彝のパステル画をまず見ることになる。洲之内徹が書いていたように「光」を感じるこのパステル画が巻頭にあしらってある菊池香一郎詩集がまた美しい。菊池香一郎は中島健蔵が唯一師とした人物で夭折の詩人とのこと。と、冒頭からもうたまらない感じだった。そのあと、渡辺一夫登場。ヴァレリーの色紙のくだりにはとにかくもううっとり。図録にはなかったので、これだけでも展覧会に来た価値はあったと思った。それにしても、「美丈夫」という言葉はこういう人のために存在するのだろうとしみじみ思ってしまった渡辺一夫の写真だった。

いちいち書いているとまたもやキリがないけれども、このあとも嬉しい箇所目白押し。雑誌の展示があるなあと思ったら戸板康二でおなじみの復刊後の「悲劇喜劇」だったり、戦前の「知性」の目次には菊五郎の「演劇放談」があったり(たしか)。「阿佐ヶ谷会」の写真のところに木山捷平がいて、文士劇の楽屋の久保田万太郎とか、名取洋之助木村伊兵衛なんて人もいる。カラヤンオイストラフといった人もいて、中国行きのところもとても興味深かった。戸板さんも何度も訪中していることだし、昭和の「知識人」と日中関係、をもうちょっと突っ込んでみる必要があるかもしれぬ。中島健蔵が撮った写真をわんさと見たあとで見る中島健蔵を撮った写真も面白かった。吉田秀和さんがちらりと写っていて嬉しかった。

吉田健一はここでも片手にウィスキーグラスを持つ姿が実にきまってた。ウィスキーといえば、本の展示のところにあった、サントリー発行の記念出版物、『千人一酒』なる1975年発行の3巻本にうっとりだった。いろいろな人が一言何か書いているという体裁で、主役の中島健蔵よりもその隣に掲載の武智鉄二にわたしの目は釘付け。「サントリーが伸びたように私の仕事も伸びますように」と実に素朴なことが書いてあってなんだかとっても微笑ましい。隣の中島健蔵吉井勇が文士っぽくかっこつけてるだけに、いいなあ。この本、戸板さんも登場しているに違いない! と、気になって仕方がなかった。手にとって確認したいところだったが、大人なんだしと我慢。

会場の様子がウェブで見られるのだったが、実際に見てみると、思っていた以上に大感激だった。12月に発売になった「花森安治特集」をペラペラめくって感激していたことが、そのまま立体になった感覚。花森安治のスケッチや装幀本、机の上の道具類の配置の感じとか、「花森安治特集」のグラビアで特にうっとりのところで、特に嬉しかったところだったから、それがそのまま空間化しているということそのものが、稀有な事態なのだった。展示されているスケッチ、戸板康二の連載「歌舞伎ダイジェスト」で使われていた、「KABUKI」の文字があしらってあるのれんのイラストがうれしかった。戸板さんの『歌舞伎ダイジェスト』も並んでいて、清水一の句集『匙』を手にして見ることができたことも嬉しかった。

自分のなかでは一段落ついたと思っていた、暮しの手帖花森安治だけれども、12月に「花森安治特集」が発売になったり、先月と今月とで戸板康二の『歌舞伎への招待』が刊行になったりで、ちょっとだけ再燃だった。記憶に新しいのが、「東京人」で暮しの手帖社屋の設計が清水一だったと知って大感激だったことなのだったが、あのあと思いもよらぬ展開が待っていて、大感激していたのとほぼ同時に、暮しの手帖社は麻布から撤退していて、先日、十番に行ったついでに見に行ってみたら、清水一の建築はものの見事にサラ地になっていたのだった。「東京人」今月号は東京で消えたもの特集だったけれども、清水一の暮しの手帖社も消えてしまった! ……もう何も言うまい。


購入本

展覧会に感激するたびに図録を買っていたらキリがないと、田沼武能展では大人なんだしと我慢したのに、中島健蔵はがまんできなかった。写真そのものを見るだけでは今回の展覧会の魅力は半減で、実際の会場の楽しさはあまり図録には収まっていなかったのだけれども、でも図録を欲しいと思わせる展覧会だったのだからしょうがない。