都筑道夫と出会った

今年2月は都筑道夫を読み始めた月であった。はじまりは、今月早々に、昭和35年発行の戸板康二推理小説集『奈落殺人事件』を届いたその日に一気読みしたことだった。案外にも戸板さんの推理小説にたいへん和んでしまって、なんとなく何か新しい推理小説を読みたい気分になって、翌日の昼休みに本屋さんで物色して見つけたのが、創元推理文庫都筑道夫『退職刑事』シリーズだった。「安楽椅子探偵」という文字に惹かれて、ためしに買って読んでみたら、さっそくハマってしまった。

都筑道夫というと、これまでは、久生十蘭に関する何かの解説を読んで、えらく冴えた人、という印象があったに過ぎなかった。それが、いざ読んでみると、本当にもうかっこいいこと、かっこいいこと。これまで都筑道夫を知らずにいたなんて、なんてもったいなかったことだろうと心から思う。と、創元推理文庫の『退職刑事』全6冊をちびちびと読んでいったのだったが、作が進むにつれてだんだん、明治の本所育ちの下町ッ子「退職刑事」が懐古的になったり東京に関する蘊蓄をもらしたりしてくるのがなんだかよかった。それでもドライな感じは相変わらずで、かっこいいのは終止変わらず。何よりも筆者の筆致そのものがよいし、「久保田万太郎」という字面が登場したり、登場する東京がとても愛着のある場所だったり、琴線をくすぐる箇所多々あって、特によかったのが、4冊目に収録の「夢うらない」。「近ごろ、おかしな夢を見てね。きょう見たんじゃあ、六代目が鯛焼屋を、やっているんだ。店の名前が音羽屋ときている」という退職刑事のセリフが導入部の一篇。「クーッ!」とたまらない感じだった。

と、そんなこんなで、『退職刑事』を読み終えてしまって、都筑道夫が心にべったりと貼り付いた。ハテ次は何を読んだらいいだろう? と悩むところなのだったが、『退職刑事』の随所に伺える、落語や芝居に映画、それに東京への造詣を見るにつけ、まずは都筑道夫のバックグラウンドが非常に気になる。文庫解説によると、お兄さんは噺家だったらしいし! と、いそいそと昨日図書館へ出かけて、とりあえず自伝的読み物『推理作家の出来るまで』上巻(フリースタイル、2000年)を借りてみた。そして、またもやスターバックスに寄り道して、ほんの下見のつもりでペラペラめくってみたら、さっそくハマってしまって大変大変。目がランランとなってしまって、家に帰るのが遅くなってしまった。この厚さが嬉しい、いつまでも続いて欲しいという感じの1冊。いつか終わってしまうと思うとちょいと寂しい。

で、今日も早起きして、朝っぱらから喫茶店でコーヒー片手に読みふけった。やっぱり都筑道夫久保田万太郎の愛読者だった。正岡容が登場していて、『夢声戦争日記』もあとでめくってみないといけない。敗戦のくだりを読んでいると、先日読んだ久生十蘭の『だいこん』のことが鮮やかに胸に甦ってきた。

それにしても、ところどころの東京描写、芝居見物に関するところなんて、戸板さんが読んだら大喜びの内容ではないかしら、そうだ、この先読み進んでいくにつれて、戸板康二の名前は登場するかしら、そこが気になるところだわー! とかなんとか思いつつ、ランランと喫茶店で読んでいたらびっくり、288ページにて戸板さん登場! あまりのことに、思わず我を忘れてテーブルをドン! と叩きそうになってしまって危なかった。『推理作家の出来るまで』は「ミステリ・マガジン」での1975年から1988年までの連載をまとめたもので、戸板さんの名前が登場しているのは、前回掲載分の誤りを指摘するお手紙を戸板康二さんからいただいた、という感じの登場。これがべらぼうに嬉しかった。やっぱり、戸板さん、毎月この連載をたのしみに読んでいたのは確実。と、キャー! と朝っぱら興奮だった。

下巻を一緒に借りてこなかったのは失敗だった。これまで都筑道夫を知らずにいたなんて、なんてもったいなかったことだろうと何度も思う。