国会図書館、デカダン文庫、カフェ・バッハ

foujita2004-03-06


12時間睡眠からぬくっと起き出してみたらようやく風邪が全快していて嬉しかった。家事諸々を片付けて、さっさと外出。今日は待ちに待った国会図書館の日。10時半までに行けば一度に3冊閲覧を申し込めるので、急がねばならぬのだった。今日は合計5冊を閲覧。国会図書館にしかないようなマニアックな本を次々にめくってご満悦だった。

そのうちの1冊が、内田誠著『落穂抄―露伴先生に聞いた話』(青山書院、昭和23年)という本。戸板康二の文章で知って以来ずっと探していたのだけれども、ずっと見る機会がなかった。内田誠は、小石川の蝸牛庵に昭和15年から出入りして、昭和16年からメモを取り始めたという。そこでの談話のみならず、露伴の服装や住居の様子を記していて、先生は床の間に何かの楽器を置かれることを好まれたらしく楽器以外のものを置くのを許されなかった、という感じの一節があったあとで、ある日の住居の様子として、床の間に墨跡の一行物と三味線箱に三味線、というメモを見ることになったりする。と、こういうちょっとしたところも面白い。じっくりと読みふけって、何年も気にかかっていつつもいまだに未読の小林勇『蝸牛庵訪問記』を読まないとなアと思った。読みたい本が次々と。

それから、おあそびで閲覧したのが、先月の中島健蔵展で展示のあった、サントリー発行の記念出版物『千人一酒』という本。昭和34年に始まって現在も続いている新聞の片隅のいわゆるサントリーの突き出し広告、著名人によるサントリーウィスキーに関する寸評が1000本集った昭和50年に記念につくられた非売品で、ペラペラと次々にあらわれる人々を眺めてたのしかった。目当ての戸板康二昭和35年に登場していた。思わず書き留めてしまった幸田文による一節は、《ひとり住みのおんなの家/ありたきものはなに/楽器と酒と/音あれば心なごみ/サントリーありて/ひととたのしむ》

国会図書館のあとの昼下がり、千代田線にゆられてとろとろと綾瀬へ行った。新・読前読後(id:kanetaku)でデカダン文庫のくだりを拝見してからというもの、ずっとデカダン文庫のことが頭から離れなかった。今日こそは! と、張り切って出かけたのだったが、前回来たときおそろしく散財してしまった脅威の古本屋であるので、覚悟が必要であった。武者震いしつつ駅から歩いた。そして、今回も前回来たとき(2年以上前)とまったく同じように、ずいぶん長居。ああ、もう! 棚に並んでいる本の背表紙を眺めているだけでもたのしくてたのしくてしょうがなかった。欲しい本を選ぼうとするとキリがなくなってしまって大変だった。やっとのことで選んで外に出たときには疲れ果ててしまった。今日もっとも悩んだのは露伴文献のところ。結局見送ったけれども、どうしたものやらと懊悩は帰宅後も続いている。

デカダン文庫のあとは、北千住から日比谷線に乗り換えて1駅の南千住で下車。この駅を降りたのが初めて。外に出るとさっそく「コツ通り」というのがあって、落語の『今戸の狐』のことを思い出してニンマリだった。山谷方面へとズンズンと歩いて向かったのは、カフェ・バッハ。さる方に教えていただいたお店で、しみじみとくつろいで、しみじみとコーヒーが美味しかった。はじめて来る町で、そんな東京散歩らしきものもたのしく、山谷といえば気分は一気に長谷川利行。今度はここで洲之内徹を読もうかしらと思った。

カフェ・バッハを出ると、とっぷりと日が暮れていた。来た道を戻って南千住へ歩くのもつまらないなあと思ったところで、道路の向こうにバス停が見えたので、ふらっと渡ってみると上野行きだったので、これさいわいとバスを乗って、吉原大門、浅草を通って、上野で降りて、地下鉄で帰宅。もうちょっとあたたかくなったら、長年の懸案、樋口一葉記念館のあとにバッハに行きたいなと思っている。と、将来の計画をいろいろ立ててたのしい。


購入本


デカダン文庫でのお買い物メモ。カフェ・バッハでバッハの無伴奏ヴァイオリンを聴きながら、次々とめくった。

  • 十返肇編『作家の肖像』(近代生活新書、昭和31年)

前回の大散財のうちの1册に十返肇があった。今回も1冊購入。十返とか奥野信太郎とか、戸板康二を機に興味津々になった書き手の昭和30年代くらいの本が何冊も売っているのがデカダン文庫。なので、背表紙を眺めるだけでたのしくてしょうがなくなる。この『作家の肖像』が以前神保町で見てからずっと気になっていたもの。「別冊文藝春秋」の記事をまとめたもので、いろいろな書き手がいろいろな作家について書いている。河上徹太郎久保田万太郎を、吉田健一福田恆存を、十返肇谷崎潤一郎を、奥野信太郎永井荷風を。

  • 馬場孤蝶『明治文壇の人々』(東西出版社、昭和23年)

同じような値段の書物で欲しい本が何冊もあって散々悩んだ末、この本を買った。去年、戸川秋骨に親しんで以来ずっと、「文学界」同人を少し追いかけたいと思っていた。さっそく樋口一葉のところを読みふけった。斎藤緑雨のところも読みふけった。内田誠聞き書きでは露伴先生は「緑雨の最後はそうひどいものではなかった」と言っていたっけ。伊藤整日本文壇史』に書いてあるようなことを、実際にいろいろと読むことで自分の頭のなかで再構築したいなあというところ。ということを抜きにしても、馬場孤蝶の文章そのものがなかなか魅力的で、この本にめぐりあったのが嬉しかった。

  • 獅子文六『東京の悪口』(新潮社、昭和34年)

デカダン文庫に以前来たときに買い逃した獅子文六『ちんちん電車』はまだあるかしら、とちょっとだけ期待していたけれども、さすがに2年以上たっている、どうやら棚にはなかったようだ。そのかわりというわけではないけれども、谷内六郎の装幀によるなかなか愛らしい書物を買った。さっそくめくって「あっ」となったのが、「鍛え」というタイトルの文章、幸田文のことを書いた文章で、この文章は以前図書館で、昭和30年代発行の『幸田文全集』の月報で見たことがあって、ずっと心に残っていたのだった。《台所に立ったり、薪割りをしたりする幸田文さんが、私には、あの美しい、堅固な文学と、切り離せないのである。》

帰宅後、部屋の文庫本棚をあさって、幸田文『父・こんなこと』を取り出した。今日は露伴で始まって、露伴で終わった一日だった。