ゆく雁や、続・内田光子さんとロンドン交響楽団

ふらんす堂」のサイトの「万太郎の一句」を毎日たのしみにチェックしている。→ 小澤實氏の「万太郎の一句」:http://www.ifnet.or.jp/%7Efragie/ozawa.html

本日の一句は「ゆく雁や屑屋くづ八菊四郎」だった。「あっ」と思って、戸板康二の『夜ふけのカルタ』所収の「久保田先生の芝居の句」を繰った。大正の句楽会の運座でつくった句とのことで、宮戸座の『三人吉三』の土左衛門伝吉についての万太郎の思い出のことが書いてあった。先月の歌舞伎座のことを思い出すと同時に、久保田万太郎を読むようになって黙阿弥のそれまでの見方が少し変わった(ような気がした)ことを思い出したりした。その当時ちょうど歌舞伎座で『十六夜清心』を見たのだった。2年前の3月のこと。あと思い出すのは、それと同じ月に『一本刀土俵入』を見て小村雪岱の装置に注目、そしてその直前にみた富十郎の『文屋』がべらぼうによかったこと。ああ、文屋……。などと、急に回顧モードになってしまった。

さて、今日はサントリーホールでロンドン響2日目。昨日と同じように、全編でたいへん堪能。たとえて言うならば、ふだん食べつけないご馳走を思う存分食べて、会話もたのしくて、食後のコーヒーもおいしくて、ワイン飲み過ぎてちょっとだるいけど満ち足りた気持ちで家路について、といった感じにたのしくてしょうがなかった。昨日と同じようにアンコールは《オネーギン》、これを聴いている時間の気持ちよさったらなかった。

ロンドン交響楽団のいくぶん重厚な、つや消しなコクある響き、びしっときまった見事なアンサンブルがとっても好みで、今日のシベリウスでもとりわけ弦の響きがとてもよくて、ひさびさにシベリウスのよろこびを思う存分満喫した。最後の和音のところ、気持ちよすぎ。わが10年間の音楽遍歴を振り返ってみると、音楽聴き1年目は交響曲をいろいろ聴いて、2年目に入って、シベリウスの特に4番から7番の4曲に親しむようになって、わたしの求める交響曲シベリウスだ! とまで思ったくらい大好きになった。が、その直後、シューベルトの室内曲とピアノ曲に開眼すると同時に、音楽聴きの中心が室内曲とピアノ曲になって現在に至っている。ちょうどクラシック聴き10周年の今年、今こそ、ふたたびシベリウスを聴かねばと思った。アンコールは覚えのある曲、何だろうと思っていたら、いつかウィーンで聴いた思い出の《エニグマ》だった。はじまりのブリテンオーケストレーションがとても面白かった。わたしが初めて出かけたコンサートが、ラトル指揮のバーミンガム交響楽団で、そのとき聴いたのが《青少年のための管弦楽入門》だったのだ。……などと、内田光子さんの協奏曲を生で聴く機会は初めてだったので、クラシック生活10周年の記念という口実でかなりふんぱつして出かけることにした今回の演奏会、なにかと初心に戻った気持ち。やっぱりたまにでも演奏会には行かないといけない。心が洗われた気がする。

そして、絶品だったのが内田光子さんのモーツァルト。こんな《戴冠式》、聴いたことがないというくらい独特で、昨日の K.482 の第3楽章で心をかき乱された独特さが、曲全編を覆っていた。昨日以上に、オーケストラが内田光子さんを全面的にバックアップしているという印象を受けた。《戴冠式》は、まるで第27番の協奏曲のような感じに聴こえてきて、後記ピアノソナタにあるように枯淡としているけれども、「枯淡」という言葉では片付けられないような、まるでモーツァルトの音楽ではないような、でもまぎれもなくモーツァルトの音楽だという感じ、なんといったらいいのか、すごい音楽だった。ディスクとは全然違う。ここにたどり着いた内田光子さんの境地って何だろう。一生忘れられない音楽になるのは確実、ずっと心にとめておこうと思う。