蝸牛庵訪問記、リートの夕べ・第1夜

せっかくの日曜日のサントリーホール、それまでの空き時間は麻布界隈をのんびり散歩しようと昼下がり、麻布十番にやって来た。少し冷たい空気がとても心地よくて、昨日みたいに雨が降っていなくて嬉しい。と、よい気分になりつつも、3分歩いただけで吸い込まれるようにスターバックスに入って、ソファで読書。

小林勇『蝸牛庵訪問記』を読み始めた。昭和11年2月11日の「記録第一頁」に露伴が娘に向かっていろいろ言っている言葉にさっそくジンとなったあとで、最初の訪問、昭和2年のページが始まってゆく。ひとたび読み始めてみると、さっそく面白くて、幸田露伴という人そのものがとても面白いのはもちろんだけども、小林勇という人もかなりのもの。その両者が合わさることで、まさしく稀有という言葉がぴったりの読み物になっていて、ひとまとまりの文章それぞれが実にいい。釣りの挿話がいいなア、露伴はやっぱりいいなア、小林勇のキャラクターがいいなア、と「いいなア」の言いどおしでうっとり。

家に戻って来た娘に対しての露伴の言葉としては、

《人間の心というものは、傾斜ができ出すとずんずんそちらへ傾いてしまう。その傾斜がよい方へ傾くということは少ないようだ。人間は二十七、八まではよい方、上る方へゆくが、それからあとはどうも悪い方か、ずるい方へ行きたがるものだ。ぼくなども悪い方へ行くとは思わないが、年をとるとずるくなるようだ。心しなくてはならない。》

という一節があったりした。『蝸牛庵訪問記』を読んだあと、もう一度じっくり幸田文の『父・こんなこと』をめくるとしよう。昭和12年蘆溝橋事件のあたりまで来たところで、ふと気づくと、結構時間が迫っているのでびっくり。あわてて外に出て、息も絶え絶えにアークヒルズ方面へと早歩き。適当に歩いていたら「寄席坂」というところを通りかかって嬉しかった。地下鉄の六本木一丁目駅あたりの桜は三分咲きくらい。来週のソロリサイタルの頃には満開になることだろう。

ボストリッジ内田光子さんとで、現代イギリスの知性、といった感じの組み合わせ。ボストリッジはまったく聴いたことがなくて今日が初めてだった。ただでさえ今まであまり親しんでいなかった歌曲、シューベルトの歌曲というと、ホッターとかフィッシャー・ディースカウといったバリトンしか聴いたことがなかったので、テノールはどんな感じなのだろうと聴くまでまったく不明だった。内田光子さんと共演するのだからさぞすばらしいことだろうと期待しつつも、かなり様子見な感じで聴きに来たのだったが、ひとたびコンサートが始まってみると、ボストリッジの声があまりにきれいで、テノールとかバリトンとかいうことを忘れて声そのものがなんともいえない深みがあって、歌を聴いているというよりは音楽そのものを聴いているという感じ、もう惚れ惚れだった。ただうっとりと聴き惚れた。

歌曲のコンサートは初めて、東海林太郎のような直立不動で歌うのかと思いきや、今日のボストリッジは落ち着きなくふらふらとオペラのアリアみたいな動きで歌っていて、それもたのしかった。ここまで無心に堪能するとは自分でもびっくりというくらいに、無心に音楽にひたった時間。レコードで聴いているのとは全然違う生ならではの立体感に埋没して、たのしかった。内田光子さんのピアノとボストリッジの歌とががっぷり四つに組んで、歌とピアノ、それぞれのニュアンスや緩急自在な変化具合がとてもよかった。ゆるやかに伸びていくようだったり、デリケートな弱音に心が震えたり、たたみかけるようなリズムによい気持ちになったり、などなど、ただただ音楽のよろこびにひたった。

冒頭のピアノが大好きな第7曲目から第9曲目までがひとつの流れのようになっていて、至福の10曲目のあとの、11曲目でなんとなく今までのトーンが変わって終りへと音楽が終りへと収束していく感じになって、このあたりでシューベルトピアノ曲の典型的気分が音楽全体を覆って、15曲目までほとんど間髪入れず進んで、16曲目の「好きな色」からまたトーンが変わっていく、18曲目の「枯れた花」のおしまいところの高く歌い続けるところがひとつの頂点で、最後の2曲へとつながっていく、……などと、あやしげな記憶をたどってみたが、こんな感じの《美しき水車小屋の娘》全体の構成が見事に構築されていて、ひとつの空間に埋没しているような感覚で、そのなかのボストリッジの歌と内田光子さんのピアノがとてもよくて、音楽的にとても面白かった。