煙突の見える場所

お出かけ計画をあれこれ練っていたというのに、結局ほとんど行き損ねてしまった今回の《日本の撮影監督 (1) 》、五所平之助の昭和28年監督作品、『煙突の見える場所』が最後に見た1本となった。先日、成瀬巳喜男の『稲妻』の余韻にひたりつつひさしぶりに川本三郎著『銀幕の東京』(中公新書)を繰って、急遽見に行くことに決めたのだった。館内で遭遇した id:kanetaku さんも「面白かった!」と言っておられたけれども、本当に実に面白かった! 「撮影監督」という言葉が冠されている通りに、やっぱりキャメラがとてもよかったのだった。映画のたのしみは、ストーリーや俳優を見るたのしみももちろんだけれども、光と陰の織り成すスクリーンそのものにクラクラしたりのキャメラが捉える映画的瞬間の歓びにひたっているときの瞬間瞬間に一番たまらないものがあって、その瞬間が冴えている映画というのが一番好きだ。『煙突の見える場所』は役者を見るのもたのしかったし、ストーリーも面白かったし、そしてなんといっても「銀幕の東京」もよかった。でもそれだけではなくて、撮影がべらぼうに冴えていたので、とっても面白い映画となった。

主人公夫婦の上原謙田中絹代の住む千住の川沿いの家からは3本に見える煙突は、場所によっては4本にも2本にも1本にも見える、その「お化け煙突」が映画全体にアクセントのように何度か挿入されていて、煙突が登場するときの芥川也寸志のリズミカルな諧謔みあふれる音楽にウキウキだった。川本三郎さんの『銀幕の東京』によると、この「お化け煙突」は椎名麟三の原作には登場せず、舞台設定は映画のオリジナルなのだというからびっくり、この煙突が登場することで、実に見事に「映画的」になっている。撮影というと、屋外のシーン、屋内のシーン、双方がそれぞれに冴えていて、床についている上原謙田中絹代を真上から捉えるアングルや、物語の騒動となる赤ん坊が映るところ、上野の西郷さん像の下でおしゃべりする高峰秀子らを自然光で撮るところ、夜明けの川沿いで登場人物4人が集うところの夜明けならではの光の処理、赤ん坊の父親探しに奔走する下宿人・芥川比呂志が電車で移動するシーンで車窓の煙突の本数が変わっていって、両親を発見した際の夕暮れの川端でのシーンは先ほどの明け方と対になっていて、ちょっと挙げるとキリがないけれども、あちこちで映画的処理が面白かった。物語も登場する人々もいくぶんシュールな感があって、そこにただよう諧謔味もよかった。

とても35歳に見えない田中絹代がいかにも疲れた感じで老けていてるのだったが、最後の安らかな心境になる表情は美しくて、クールに整った顔面とは裏腹に終始頼りなげに滑稽味あふれる上原謙がとってもいい味を出していて、階上の下宿人、高峰秀子芥川比呂志もとてもよかった。映画全体に戦争の影がつきまとっていて、川本三郎さん言うところの典型的「戦後日本映画」。税務署勤めの若者の芥川比呂志は終始洋服で、高峰秀子は部屋での普段着はもんぺ風の和服、夫婦は和服だったり洋装だったりで、映画の室内シーンでは何度も火鉢が登場する小道具遣いなどなど、昭和28年の風俗が面白かった。田中絹代のアルバイト先として競輪場が登場するところも注目だった。小津の『小早川家の秋』とか増村保造の『くちづけ』とか、昔の日本映画には何度か競輪場が印象的に登場している。そんな「日本映画における競輪場の系譜」というのもありそう。

通称“お化け煙突”が見える場所に住む人々――戦争を引きずった貧しい彼らの生活と哀歓を見事に描く名優競演の秀作。五所監督お得意の小市民劇は、ここでは戦後を色濃く反映していかにもほろ苦い。移ろう時間に応じた光の捉え方や空気感の描出に三浦の才能が窺われる。(チラシ紹介文より)