内田光子ピアノ・リサイタル

何カ月も前から心待ちにしていた内田光子さん来日公演はいよいよ最終ラウンドに入った。気合いを入れていたせいかこの季節にしては例外的に体調万全で、今年は花粉が少なかったのもラッキーだった。無事にここまで来られて本当によかった。今日はオールベートーヴェンプログラム、しかも後期三大ソナタ。しっかりと聴けるように朝から気を引き締めつつもエネルギーをとっておくように、ソロリソロリと抜け殻のように演奏会のためだけに日中の時間を過ごしたという感じで、ようやく午後7時になったのだった。

ベートーヴェンの3曲のソナタはもう何年もおなじみの曲、聴き始めはバックハウスで、やがてルドルフ・ゼルキンを知って、一番最近夢中になったのはシュナーベル。演奏会では1998年の来日公演の際にポリーニを聴いて思いっきり揺さぶられて、op.111 はたしかツィメルマンでも聴いたことがあったはず。部屋で聴いていると、op.111 の第2楽章は必ずハッと静止して耳が奪われて、ただただ耳を傾けることになる。という感じの、もう何年ものおなじみの音楽だったはずなのに、今日通して聴いてみると、まるで初めて聴いたかのような新鮮さだった。op.111 の第2楽章ではもうただただ聴きほれるばかりで、ずっとこのまま聴いていたかった。でも曲が終わると「ああ、終わってしまった」といった切なさはなくて、スカッと晴れ晴れといい気持ちでひたすら内田光子さんに拍手。内田光子さんのリサイタルを聴くたびにいつも「内田光子さん、あなたはすばらしい!」という感じに、ただひたすら手を叩くのだったけれども、今日もおんなじだった。ただひたすら手を叩いた。

op109,110,111 の3曲は大のお気に入りで生で聴けると思うとそれだけで嬉しくて、もしかしたら誰の演奏でもそれなりに満足してしまうのかもしれない。今日の内田光子さんでは、聴き始めの op.109 が始まったまなしの頃はなんとなくキンキンとしていて乗れないところもあった気がしたのだけれども、第3楽章の変奏曲に入るともう無類で、おなじみの曲なのでこの音の次はこうなるとわかっているはずなのに、内田光子さんの演奏だと、そのわかっていたはずのところがちょっと違う感じに聴こえ、変な言い方をすると「あ、こう来たか」というふうに予想を裏切る。でも予想していた音よりもずっと魅力的な音楽がそこにあって、まさしく汲めども尽きぬ新鮮さだった。ベートーヴェンは「古典派」、シューベルトブラームスは「ロマン派」というふうに音楽史上の区分で音楽を聴いたことはあまりないけれども、内田光子さんで聴くとベートーヴェンが多分にシューベルト的、というか、シューベルト的な箇所になるととびっきり持ち味が出て魅力が増すような感じがした。

今日に限らず、すばらしい演奏会を聴くたびに思うことは、西洋音楽の歴史そのものがなんとなく見えてきた気がするということ。うまく言えないのだけれども、op.110 の第3楽章では長い序奏のあとでフーガ主題が登場する。序奏でのゆったりと深く入り込むような感じの演奏を聴いていると、ベートーヴェンのあとの時代のシューベルトブラームスピアノ曲を思い出したり、フーガになるとベートーヴェンより前のバッハを思ったりと、まさしく勝手な思い込みだけど、ひとつの音楽でいろいろと類推しているうちに西洋音楽そのものが見えてきた気がした。クラシック音楽が好きで日頃からのべつ聴いているのであるけれども、クラシック音楽の何にこんなにも夢中になってこんなにも胸をしめつけられているのだろうと、音楽の神秘のようなものに触れたかのような気がして、敬虔な気持ちになった。

op.111 の第2楽章はただひたすらこのまま永遠に聴いていたい、という感じだったけども、第1楽章の方もすばらしかった。じっくりじっくりと曲の構成が鮮やかに見えてきて、とりわけ、第2主題のときの右手の高音のところがすごかった。op.110 でも今までこの曲の何を聴いていたのだろう、実は何も聴いてはいなかったのではないかと、目を開かされた思いだった。この曲は明後日のリサイタルでも聴けるので、もう一度よく考えてみよう。全体的な印象だと、2週間前のロンドン響とのモーツァルトでは、その枯淡さ、澄み具合がひどく心にしみてたまらなかったけれども、今日はどの曲も聴いた直後は胸がいっぱいなのだけれども、締めつけられる感じではなくて、今日のベートーヴェンはいい意味で過渡期にあるのだと思った。今日のベートーヴェンだって十分素晴らしかったのだけれども、これからどんなベートーヴェンを聴かせてくれるのだろうと、おたのしみはまだまだこれからなのだと、演奏会後は陽気で爽快な心持ちで家路についた。