続・内田光子ピアノリサイタル

foujita2004-03-31


今月後半は内田光子さん一色だった。しつこく書いているように、今年2004年はクラシック生活10周年なので、ひとりで盛り上がっている。10年前の春に突然クラシック音楽を聴くようになって、たちまち夢中になった。以来ずっと音楽を聴いているのだったが、今回の内田光子さん来日公演はいろいろな意味で絶好の節目になった。ぜいたくして全部聴きに出かけてしまったけれども、花森安治じゃないが、ぜいたくは素敵だ。こんなにも音楽に耽溺したのは本当にひさしぶり。なんて幸福な日々だったことだろう。

今日は最終日だったけれども、初日とおんなじように、肩から羽根が生えて地上を飛んでいるような心境でサントリーホールへ向かった。今日で終りだけど嬉しくてしょうがなくて、演奏会のあとも、終わってしまった、という喪失感は皆無でなんだかもうむしょうに幸福だった。将来、内田光子さんの演奏を聴く機会はめぐってくるのは確実だし、それに、たとえ今日を最後に聴く機会が永久に失われてしまうとしてもそれはそれで全然悔いがないというくらい、スカッと全身で満喫した時間だった。

今日はいずれも内田光子さんおなじみの作曲家ばかりで、アンコールはいつもの通りにモーツァルトソナタの第2楽章。このアンコールを聴く時間がいつもただただ幸せで、いつかのインタヴュウで「アンコールでモーツァルトソナタの第2楽章を弾くと、自分一人のために弾いてくれたと思う人が多い。自分で弾いていても私のために書いてくれたと思うことがある」というようなことをおっしゃっていたけれども、まさしくそんなふうに音楽にひたった。今日の K545 を聴いている時間も言いようがないような甘美な時間で、この感覚って何だろうと思いをめぐらして急に折口信夫による羽左衛門論の一節、《その舞台が醸し出す幸福感に、明るいあきらめが覚えさせる清麗なもの……》というくだりを思い出した。部屋でレコードを聴くといつも妙に心をかき乱される K545 の第2楽章、モーツァルトがどんどん遠くの方に行ってしまって遠くの方からこっちを見つめているという感じの美しい音楽、ここにあるのはまさしく「明るいあきらめ」のようなものなのかもしれないなと思った。なにしろ「あきらめ」だから、ただぼーっとうっとりとひたるだけだった。この感覚にひたっているときの澄みきった気分はたまらないものがあった。

今日のプログラムはいずれもウィーンで活躍した作曲家、13歳でウィーンに渡って以後ロンドンを拠点に演奏活動をなさっている内田光子さんによる彼等の音楽に耳を傾ける時間だった。演奏家とはその音楽をどのように捉えているかを聴衆に示す批評家でもあるわけだけれども、その内田光子さんが提示する音楽のくっきりとした1本の線を感じることで、わたしの聴きたい音楽はまさしくこれだったのだと勝手に思って上機嫌になった。演奏会後の爽快さのゆえんはまさしくここにある。内田光子さんの紡ぎ出す音のひとつひとつが、わたしの聴きたい音楽はこれだったのよ! と次々と思わせてくれるような、自分の聴きたい音楽なんてちっともわかっていなかったくせに、内田光子さんの音が聴こえてくると急にわかってしまったような、ブリリアントな批評に接しているような感覚だった。内田光子さんの演奏を聴くと、テンポや強弱の変化や音そのものの美しさにひたすら感嘆して陶酔するのだけれども、ビューティフル! といような陶酔だけでなくて、Interesting! といつも思う。曲そのものの魅力にひたると同時に演奏の妙にもウキウキする。

今日の曲目もどこもかしこも大堪能だった。ベートーヴェンはまさしくモーツァルトシューベルトを得意にする演奏家ならではのベートーヴェン。こんなベートーヴェンが一番好きだ。内田光子さんがエドウィン・フィッシャーを「高み」、シュナーベルを「深み」という言葉で表現していたことをいつもよく思い出すのだけども、今日のベートーヴェンはそんな高みと深みとが同居した演奏で、軽やかだけど深いという感じだった。第2楽章の中間部のあたりとか、第3楽章の「嘆きの歌」での伴奏がどんどん静かに高揚していくところとかが無類だったところを挙げようとするとキリがない。《楽興の歌》もどこもかしこも素晴らしくて、レコードで聴いていたような繊細さがちょっと和らいでやわらかみが増しているような印象を受けた。第4楽章の軽やかさがいかにも似つかわしいような演奏で、円熟のまっただ中にいる人ならではの音楽で、実によかった。