文庫本と音楽

朝は早めに家を出てコーヒーを飲んでのんびり。戸板康二のエッセイ集『ハンカチの鼠』を突発的に読み直してみたら、何度も何度も読んでいる本なのに実に面白くて、新たに「おっ」というところもあって、曇り空のなか無気力にここまでたどり着いたのが急に上機嫌になった。帰りは、バスに乗ってとある図書館へ。雨のなかバスにのってぼーっと無気力に車窓を眺めるのがたのしい。月曜日に行こうと思っていたのがさる事情で断念、やっと今日来ることができたと大喜びだったのに目当ての本がまだ在架していなくてがっかり。が、そのあとにいくつかよい資料を見つけて、やっぱり図書館に来るといつもいいことがある。夢中になっているうちにいつのまにか閉館時間になっていた。ヘトヘトと帰宅。駅から歩いているうちに雨がやんだ。

戸板さんの『ハンカチの鼠』の、綺堂の紀行文がおもしろい、というくだりに急にそそられて、さっそく昼休みに本屋さんへ物色へ。ずっと買い損ねていた河出文庫で何冊か出ている綺堂随筆、紀行文はあったかしらとチェック。ひとたびめくってみると、紀行文云々ということを忘れて、目次のタイトルに並びにひたすらうっとり、今日のところは「寄席と芝居と」とか『三人吉三』とか「竹本劇の人物研究」とかいう文字が目につくこの文庫本に決めたと、ウキウキとそのままコーヒー店に直進した。今日はコーヒーを飲んでばかり。

まっさきに読んだのが最後の文章「目黒の寺」。去年の春先に、戸板康二の『芝居名所一幕見』という本を片手にガラにもなく散歩をしてみたのだけれども、初回の目黒と次の四谷であえなく挫折していた。が、あのときじっくりと目黒を歩いたのは実に貴重な体験だったとしみじみだった。この綺堂の「目黒の寺」を実感を持って読むことができて、とにかく至福だった。解題によると、この「目黒の寺」、綺堂が生前発表した最後の文章とのこと。芝居や寄席のところにももちろん大喜びだし、ちょっとした生活随筆もしみじみよくて、ひさしぶりに銭湯に行きたくなり、睡眠の歓びを語る文章に「Me too」と大喜び。それにしても、ここまでツボな文庫本はそうあるものではない。河出文庫の綺堂、こうして1冊ずつ読んでいこうと思う。新刊で買い損ねるととたんに機会を逸してしまいがちなので、手に取ることができてよかった。表紙の小林清親からして嬉しくて、ここまでツボな文庫本はそうあるものではない、と何度も思う。

そうそう、「東京かわら版」で知って初日に行こう! と心に決めていた、原宿の太田記念美術館小林清親展、行き損ねていたのだった。ので、メモ。→ http://www.ukiyoe-ota-muse.jp/display04.html


聴いている音楽


ギュンター・ヴァント指揮ベルリンフィルシューベルト《グレイト》に夢中になってしまって、あらためてフルトヴェングラーで聴き直したりして実にたのしかった。《グレイト》のフィナーレについて、吉田秀和さんは『私の好きな曲』に、

《私は、近年になって、やっとこの長さが、均衡の上から欠かせないものだということが、きいていて感じとれるようになった。退屈するか、大きな喜びを感じるか、そのわかれ目は、主として、ベートーヴェンの『第九』の旋律を思い出させるこの楽章の第二主題の変化し展開してやまないところを、うまくとらえるか、とらえそこなうかにあるのではないか。》

というふうに書いていて、なるほど! となった。ヴァントはその第二主題のところをすばらしくうまくとらえているのだ。この曲のフィナーレのことがやっとよくわかってきたような気がする。以前、ヴァントのブラームスの2番と3番のディスクを聴いて、急にこれらの曲の構造や細部処理がとても面白く感じられて、他の指揮者でいろいろ聴いて大興奮、ということがあった。すっかりおなじみの交響曲なのにこんなに面白いなんてと嬉しかった。というようなことを思い出して、あらためて《未完成》の方にも夢中になってしまって、今はヴァントのブルックナーの5番を毎日断片的に聴いている。ほかには8番しか知らないブルックナー交響曲なのだけれども、なぜか5番のディスクだけ前々から持っていて、前々から好きな曲。

やっぱり交響曲は音楽の歓びここにきわまれりの充実感。歌舞伎にたとえると重厚な丸本歌舞伎に身体全体でク−ッと興奮してもうちょっと突っ込んでみようとやる気満々になる(実行が伴うかは別の話)のと同じよろこびがある。

夜ふけは低音量で、アドルフ・ブッシュとルドルフ・ゼルキンブラームス高橋英夫さんの文章を読んでいたら、寝床での夢うつつに小さな音で聴く音楽のよろこび、についてのくだりがあって、共感大だった。