買った本と見た芝居

新・読前読後(id:kanetaku)を拝見して、いてもたってもいられず、さっそく昼休みに買いに行った。森鴎外幸田露伴島崎藤村夏目漱石寺田寅彦永井荷風といった近代日本文学の西洋音楽受容のようなものを扱っているこの本。わたしにとって思いっきりストライクゾーンな内容の本が新書という廉価普及版形態で出ているなんて、こんなに嬉しいことはない。と、さっそくコーヒー店に直行してまっさきに読んだのは、漱石寺田寅彦の箇所。朝からずっと眠くてたまらず、時間の経過とともに眠気はひどくなるばかりだったのに、この本を読んだら急に目が覚めて、午後はずっと気分すっきりの月曜日となった。


先週の金曜日は、夕方に意気揚々と神保町へ出かけて、メラメラと下見にいそしんだ。買い物は文庫本数冊と以下の1冊。

まっさきに書肆アクセスに入って奥の棚の本を眺めていると、急に上機嫌になってきた。このあたりの棚には、いつも読みたい本がたくさんある。で、「大阪文学叢書」シリーズの『三好達治 風景と音楽』をふと手にとってみるとなんとなく面白そうなので、ふらっと買った。今回初めて存在を知った本で、突発的に買ってしまった。

三好達治は、今年2月の岩波文庫のリクエスト復刊の1冊、フランシス・ジャムの『散文詩 夜の歌』の訳者として見たことで、このところちょっと気にかかるようになった。ジャムの『夜の歌』は、ひとたびページをめくると、いろいろな夜が次々と視覚化する。夜ふけになにがしかのノクターンを聴くようにして気まぐれにペラペラとめくるのがいかにも似つかわしくて、ほんわかといい感じの素敵な詩集。『三好達治 風景と音楽』をちょっとだけ立ち読みしてみたら、三好達治がフランス詩の原文から直接ではなくて堀口大学の訳詩によって自らの詩作に大いに影響を受けたこと、フランス語の直接の響きではなくて大学訳によって得る視覚的印象が鮮烈だったということが書いてあって、ジャムの詩集のことをちょっと思い出した次第だった。戦前昭和の翻訳文学のこととかなにかと興味津々。

十代の頃、もっとも夢中になった文学者といえば、なんといっても萩原朔太郎で、当時その一貫で三好達治の詩論などよく読んでいたものだった。むかし都立中央図書館に行くと勉強をさぼって朔太郎全集をめくってばかりいた。先週ひさしぶりに都立中央図書館に行ったばかりだったので急にノスタルジックな気持ちになったということもあったのかも。と、思いもかけないところで思いもかけない本を買ってしまって、こういうのはたのしい。


週末歌舞伎座日記


晩春を通り越して初夏のようだったよいお天気の週末、うーん、こんな日は美術館へ行ってそのあと散歩して、そしてコーヒーを飲んでのんびりしたいなアと、せっかくの歌舞伎座なのにちっとも歌舞伎気分が盛り上がらず、かなり無理矢理に出かけたのだったが、やっぱりいざ行くととっても面白い歌舞伎座。昼、夜それぞれに両極的にたいへん印象に残った。歌舞伎のあとさきの銀座そぞろ歩きもよいお天気でとてもよかった。サンタ・マリア・ノヴェッラではシューベルト即興曲が流れていた。

  • 四月大歌舞伎(歌舞伎座・昼の部/4月17日)

昼の部は『番町皿屋敷』、『棒しばり』、『義経千本桜』の「渡海屋」とすべて一度は見たことのある演目。見たことはあるといっても観劇後ほどなくして忘れてしまうという刹那的な芝居見物のここ数年間なので、例によって初めて見るような感覚で、うーむ、といろいろと考えさせられる感じだった。特に感慨深かったのが『棒しばり』。筋書の年表を確認すると、以前に見たのは平成10年8月、同じく勘九郎と当時八十助の三津五郎だった。あのときは歌舞伎を今まさに見始めたまなしッ、というころで、『棒しばり』は猛暑のある日、幕見席で見たのだった。そして、愉快で愉快で愉快でもうたまらない感じだったことを今でも鮮明に覚えているので、今回の『棒しばり』もさぞ楽しいだろうなあとそれはそれはたのしみだったのだけれども、うーむ、どうしたことか、前回ほどは楽しめなくて、自分でもびっくり。たかだか数年の芝居見物ですれてしまったのかなあと、軽くため息。でも、最後二人で踊るところでやっとウキウキしてきて、なんだか眩しかった。久保田万太郎の芝居随筆が大好きでのべつ読み返しているのだけれども、今回『棒しばり』の最後のあたりを見ているとき、急に久保田万太郎が使っていた「二長町といふ感じ」という言葉を思い出して、急に胸がキューンとなってくるものがあった。

『番町皿屋敷』は以前、團十郎福助で見ていて、二度目に見ることで、あらためて、この演目について思いをめぐらすことができて楽しかった。特に、去年に、白井権八、幡随院長兵衛と水野、黙阿弥の『新皿屋敷』とが盛りこまれてある伊藤大輔の『大江戸五人男』を見たことで、それらのつながりに思いを馳せるのがたのしいというか、旗本の青山播磨とわざわざ下町から麹町の山王まで花見にやってくる幡随院長兵衛の手下たち、武士と町人、山の手と下町といった対立構図が面白くて、お侍登場の江戸落語のことを思い出したりも。前見たときも思ったことだけども、岡本綺堂に限らず新歌舞伎を見ると、いつもセリフを耳で追うのがたのしくて、あちこち耳をそばだてて、端正な舞台装置を見るのもたのしくて、下座などの音楽処理もなるほどと唸らせられる。他所事浄瑠璃風にお菊が物思いにふけるところとか、皿を割るところのボーンという鐘の音と照明が少し暗くなるところとか、ストーリーそのものよりは作劇術の方に注目してしまう。演目そのものよりは、こういう芝居が作られた大正という時代のこと、二代目左團次の時代のことに思いをめぐらすのが面白いという邪道な見方をしてしまう。

で、目が覚めるようだったのは、仁左衛門の知盛。「渡海屋」は3年前に吉右衛門で見てたいへん満喫して、同じ年に團十郎で見てこれまたたいへん満喫して、去年は文楽の通し上演で玉男さんの人形に見とれていたばかり。と、結構おなじみの演目のはずなのに、まるで初めて見たかのような感覚だった。やっぱりまだまだこの演目のこと、全然わかっていなかったなあとモクモクと刺激的で、今後もいろいろと見てみたいという意欲を駆り立てられて、やっぱり歌舞伎は面白い。渡海屋銀平として傘を持って花道を出るところからし仁左衛門はとてもかっこよく凛としている。その「凛」というところがいかにもこの人の正体は身分の高い人なのだなあという感じで実によかった。この演目を一階席で見たのは初めてなのでそんなことを思ったのかも。相模五郎と入江丹蔵が勘九郎三津五郎なのも豪華で嬉しかった。前半のおどけたところもすばらしく面白かったし、後半の御注進とでクッキリと前後を対比するような見方をできたのは今回がはじめてだった。今まで見たときは、この演目を覆うグロテスクさからくる様式美みたいなものに酔うという感じだったけれども、今回は手負いの述懐のところのセリフの端々が心に響いてきて、『義経千本桜』の構図そのものに思いを及ぶというかなんというか、今までとまったく違う見方ができた(ような気がする)目が覚めるような仁左衛門の知盛だった。でも、好きか嫌いかをいうと、吉右衛門の知盛の方が好きかもという気も。

  • 四月大歌舞伎(歌舞伎座・夜の部/4月18日)

見に行く前は勘九郎の一人舞台なのかなあと勝手に思っていたのだけれども、いざ見てみると、勘九郎が期待通りに輝いていたのはもちろん、七之助三津五郎福助といったおなじみのアンサンブルがとてもよくて、そして仁左衛門の日本駄右衛門がビシっと固めるという感じで、それぞれの役柄がとてもよかった。全編たいへん堪能。今まで何度か「浜松屋」を見たのと、新橋演舞場で「極楽寺山門の場」を一度見たことのあるという程度の知識だったので、前後にこういう場面があったのか〜、日本駄右衛門と弁天小憎と浜松屋親子の数奇な運命! と、あちこちで素朴な驚きを味わって、実にたのしかった。

ここ1年と数カ月、なんとなく四代目松助を追求(というほどでもないけど)していて、特に黙阿弥ものになるとまっさきに松助の役を探している。どこで見たのだったか松助の本役は南郷力丸だったとどこかで知って、おっ、ではちょいと南郷に注目しようと思って、そういうふうな見物がまた面白かった。図書館で仕入れた国立劇場の上演資料集には松助の南郷力丸について詳しくは載っておらず、昭和6年4月の「演芸画報」の松田竹の島人という人の文章で《先年帝劇で、宗十郎が弁天小憎の時、故松助が力丸を演しましたが老年だけにしなびている嫌いはあったにせよ、演ることは確で、それに脇役の性根をよく知っていただけに、何んともいえぬ力丸で、宗十郎はどんなに演じよかったろうと思われた程でした。》というのがあったのみ、でもこれを見ただけでももうとってもワクワク、胸が躍る。国立劇場の上演資料集はいつもとてもすばらしい。

と、そんなわけで、なんとなく南郷力丸に注目していたところ、今回は三津五郎なのでなおのこと嬉しかった。序幕の『新薄雪物語』ふうのところで、南郷力丸はそのまま『新薄雪』の序幕に登場する奴の妻平で、以前の通し上演のときもその役、三津五郎がやっていて、『新薄雪』の妻平と籬については、戸板康二が『フィガロの結婚』のフィガロとスザンナのようだ、と実にうまいたとえを使っていたのにもワクワクだったので、そんな過去の芝居見物を思い出すのもたのしかった。序幕の最後のところで、弁天小憎と南郷力丸が正体をあらわして立ち回りになるところ、とてもよかった。

うまいことを言う戸板康二というと、弁天小憎の「わっちゃほんの頭数」のところで《一見謙遜しているようでもあり、そのくせ気負っている感じもあり、なまいきに聞こえて、いかにも弁天小憎らしくていい。》というところがしみじみうまいッと思っていたものだったけれども、今回の勘九郎、まさしくそんな弁天小憎が絶品で、日本駄右衛門にすごまれても香合を頑としてわたさないところがまた鼻っぱしが強くていいッとあちこちでワクワクだった。

そして、なんだかウルウルだったのが、「極楽寺山門の場」の弁天小憎の立ち回りのところ。黒の着物になかは浅黄の襦袢という衣裳が実にうつくしく映えていて、なんでもないような立ち回りがとにかくもうなんて美しいのだろうとうっとりだった。先日、木村伊兵衛の写真展で見た六代目菊五郎の弁天小憎そのまんま。舞台を見る前にブロマイド売場の勘九郎を見て、六代目菊五郎そっくりなんて思ってしまったけれども、本当にもう実に美しかった。と、またもや国立劇場の上演資料集を参照すると、渥美清太郎が、六代目は昔から弁天小憎が大嫌いでいつもよんどころなしに勤めていたが、この立ち回りだけは大好きだった、というふうに書いていて、うーむ、そうであったか! と、そういうことを知るとなおのことジーンだった。

「浜松屋」も今まで見たどれよりもたのしかったような気がする。おなじみの正体を表わすところも音羽屋風のいかにもな言い回しと微妙に感じが違っているような印象を受けて、それがまた絶妙で、小道具のちょっとした段取り(豆絞りの手ぬぐいを頭が投げるところとか)にいちいち「おっ」とたのしく、本当は駄右衛門の息子だった! という浜松屋の息子、いかにも良家の若旦那という七之助が実によかった。「浜松屋」を見ると、いつも芝居うんぬんのみならず、江戸の商家のインテリアとか番頭さんと奉行人とか大旦那とか人々の様子などなど、生世話もの世界を目の当たりにするのがとてもたのしくて、いつもいろんな落語のことを思い出したりもする。眺めているだけでもたのしいのだったが、そのたのしさもいつにもまして今回はとても満喫したような気がする。

……などなど、妙にだらっと書き連ねてしまって肝心なことを書きそびれたような気も。まとめてみると、結構やる気なく見に来たくせにずいぶんたのしかった今月の芝居見物であった。