内田光子さんのインタヴュウ

薄暮のなか、心持ちよくテクテク歩いて京橋図書館へ。その途中、奥村書店で、先週東京堂で見て欲しいッと思った本が安く売っていて「おっ」となった。しばし惑うものの、所持金に不安があるし、来週までこの本を読みたいという意欲が残っているかすら実はあやしいので、なにはともあれ、来週を待つことにする。図書館では予約していた本を引きとったあと、雑誌コーナーへ。いつも辛気臭く昔の本ばかりを眺めているわが身を反省し、これではいけない、現代ジャーナリズム(のようなもの?)にも触れないとッ、と決意して、まずは「演劇界」を手にしたものの、うーんやっぱり次号からにしようとすぐに棚に戻して、次は「レコード芸術」を手に取った。何年ぶりかでめくってみると、さっそく内田光子さんのインタヴュウ記事があるので狂喜。最新号なのでこっそりコピー。アファナシエフベートーヴェンソナタ集が出ていることを知った。買いに行かねば。


帰宅後は、先月の内田光子さんのリサイタルと同じ曲順で、MD をこしらえた。モーツァルトのロンド K.511 とウェーベルンの変奏曲、ベートーヴェンの op.110 、シューベルトの《楽興の時》。過去に出かけた数少ないコンサートのなかでとびっきりの思い出になっているいくつかの演奏会の曲目ノートみたいなのが手元にあって、そのまんまの順番でレコードを聴いたりするのが好きだ。ベートーヴェン以外は内田光子さんのレコードを録音、ベートーヴェンは内田さんのお嫌いなバックハウスにしてみた。3月末日のリサイタルのときは、モーツァルトウェーベルンが途切れなく演奏されて、なるほどなあととても心に残った。以前のリサイタルでショパン前奏曲 op.45 とソナタ3番が同じように途切れなく演奏していたことを思い出して、あのときの同じように、ブリリアント! と思った。おかげで、リサイタルのあと、ウェーベルンを強化したくなって、ポリーニのディスクを取り出したら、うっかりストラヴィンスキーの方にハマってしまって、内田光子さんとブーレーズの共演ディスクの方をこれからちょっと強化したいと思っているところ。内田光子さんもムターも、古典はもちろん、20世紀への目も開かせてくれる演奏家で、そういうところも好きなのだった。

今日入手した、内田光子さんのインタヴュウにモーツァルトウェーベルンに関する言及があって、嬉しかった。ここに書き写しておこう。

モーツァルトヴェーベルンの共通点というのは、音の一つ一つに対する感覚の細やかさ。それと、曲の中の音の一つ一つの位置、バランスがおそろしく取れているということでしょうね。左と右にモノをおく昔の秤の上に音を乗せていったら、最後にはバランスが取れているだろうというのは、この2人だけです。モーツァルトは、フレーズの始まりがどこであるか、つまり「この音が最後の音か最初の音か」という判断が大変難しい。前のフレーズの最後の音と次のフレーズの最初の音がつながっていて、ループのような構造になっている。ヴェーベルンはハーモニー的に、最初のグループの最後の音が、次のグループの音につながっていく。そういう意味でも近い。それと、2人とも大変に細かかった。特にモーツァルトほど細かく考える人はいなかった。こんなに脳の働きが細かい人は、シェイクスピアと彼だけ。(「音楽の友」2004年1月号・内田光子インタヴュウ)