続・歌舞伎座一幕見

NHK ラジオで「音楽の泉」が始まった頃に目が覚めた。今日はベートーヴェンの《大公トリオ》。アシュケナージらによる演奏で手持ちのディスクと同じなのに、ポロッとラジオで聴けるとまた格別な嬉しさがある。しばらく寝床でぬくぬくといい気分で聴いた。いつもだったらいつまでもだらだらしてしまいにはまた寝てしまうところなのだったが、今日はガバッと起きて、フィナーレは朝食の食卓で聴いた。皆川達夫さんが何度も「いい曲ですねえ」とおっしゃっていたけれども、本当にいい曲。

京橋図書館へ出かけて、予約してあった本を引き取って、各紙書評をチェックして、ほかにも本を何冊か借りて、タリーズでのんびり読書。この界隈の日曜日の午前中ならではの独特の静けさがなんだか好きだ。今日借りたうちの1冊は、西本晃二著『落語「死神」の世界』(青蛙房)。ちょうど1年前の去年4月、歌舞伎座で黙阿弥の『人間万事金世中』の上演があって幕見席でちょろっと見物したのだったが、芝居見物そのものよりも付随して読んだ、岩波の新日本古典文学大系の黙阿弥の脚本が脚注ともどもすばらしく面白かった。洋行帰りの福地桜痴が紹介したリットンの戯曲から黙阿弥が翻案したという成立過程そのものにまずワクワクだったのだけれども、それと時をほぼ同じくして「東京かわら版」に出ていた『落語「死神」の世界』の紹介文で、「圓生百席」でおなじみだった「死神」の成立過程にも福地桜痴の洋行が絡んでいるらしい! と知ってびっくりだった。と言いつつも、『落語「死神」の世界』を手にすることなくちょうど1年が過ぎてしまっていた。戸板康二の『ぜいたく列伝』再刊を機に、思い出した次第。『落語「死神」の世界』はさっそくとても面白くて、「明治」はなにかと面白いのだった。黙阿弥や円朝が登場するとなおのこと胸が躍る。

  • 四月大歌舞伎・昼の部/『棒しばり』、『義経千本桜』「渡海屋」(歌舞伎座一幕見)

先週の見物以来、部屋にある諸々の『千本桜』資料をひもといて、特に3年前の通し上演の折の国立劇場の上演資料集を読んで急にヒートアップ、やっぱり先週はあまり集中して見物できていなかったような気がする、もう一度見に行こうと一大奮起をして幕見席へ出かけた。当初は「渡海屋」だけにするつもりだったけれども、いかにも立見になりそうなのでやっぱりじっくり見るには座った方がよかろうと『棒しばり』から幕見席に潜入する作戦にした。『棒しばり』は立見、「渡海屋」で目論み通り無事に座れた。『棒しばり』は先週見物したときと感想はそう変わらず、「渡海屋」の方はあらためて見てみると、国立劇場の上演資料集を読んだあとだったので、少なくとも先週よりはいろいろと心に刻むことができた。あともう一度くらいは見たかったかも。いつも思うことだけど歌舞伎は見れば見るほどわからなくなる。「精進」せねばと、急に気が引き締った(実行が伴うかは別の話)。

渡海屋銀平として出るところの知盛の衣裳の羽織の柄は何だろうと思っていたら、このアイヌ模様は船に縁のある職業をシンボライズしているのとのことで、あとの御注進のときに入江丹蔵が同じ模様の衣裳を着ていることに気づいたりして、こういうのはたのしい。渡海屋銀平の仁左衛門はとてもかっこよくてセリフがきれい、相模五郎をやっつけるところの名調子が絶品だった。一瞬ちろっと奥の義経を見やるような仕種をしていて、そこがとてもよかった。知盛の姿になって出発する前の謡ガカりになるところの扇を持ったり長刀を持ったりの所作も美しく、国立劇場の上演資料集で読んだ松緑芸談のことを思い出して、胸にしみるものがあった。

歌舞伎の舞台にあらわれるちょっとした時間変化が面白くて、知盛が出発したあと、下座でボーンと鐘の音が入って女房が行灯に火をつけることで、なんとなく舞台の様子が変化してくるところがしみじみよかった。変化というと、「大物浦」の冒頭で、典侍の局の姿になって待っているところで、さらに夜が更けているということが義太夫でわかるというところもよくて、いつも舞台が始まったばかりの義太夫だけが聞こえてくる時間が好きだったのはなぜかちょっとわかったような気がした。

「大物浦」の知盛が登場するまでの前半は、いつもどうもだれてしまって、集中度が低下してしまうのだったが、今回は芝翫だったせいもあるけれども、なんとなく坪内逍遥の戯曲のことを思い出して五代目歌右衛門の大正のことを思い出したりして、うーむとなった。あとの、知盛は活歴っぽいので気分は明治で、冒頭の銀平は江戸の侠客姿の典型で、いろいろな要素が混在しているのが面白いともいえるし、もっと面白い歌舞伎はどんな歌舞伎かということを考えさせられたりもする。

で、今回もっとも堪能したのはやはり、知盛の最期のところ。段階段階の変化にゾクゾクだった。国立劇場の上演資料集で知った、長刀を持った4人の武者との立ち廻りは九代目團十郎の工夫で、延若の型では胸にささった矢を抜いて血をすすって喉のかわきをいやす、というくだりが心に残っていたので、そこに大注目で、血をすすった直後の知盛の第一声のあたり、義太夫に乗ってよろよろと崩れるようになって、義経たちに裏をかかれたことを知って無念千万、そのあとでトドメを刺すように若君のセリフがあって典侍の局が自害して、三悪道の述懐へと進む、そんな三段階の変化にいちいちゾクゾクだった。国立劇場の上演資料集で読んだ松緑芸談がとても面白くて、そこで松緑が言及していたセリフの端々に注目するのがたのしかった。

そして、今回もっとも胸にしみたのが、三悪道の述懐のあとの知盛のセリフ、義経を襲ったのは知盛の怨霊だったと伝えてくれというところ。セリフの最後の怨霊のところだけ竹本が語ることでますますストーリー全体を鳥瞰するような感じがして、ひとつの伝説への収斂してゆくという感覚を鮮やかに味わうことができた。知盛のことはなかったことになって知盛は淡雪のようにして消えていくんだという感じで、文字どおり無常感しきりだった。岩にのぼってゆく知盛は花道の義経と顔を向かい合わせ、知盛が消えると義経は九州方面へと落ちのびようと出発する。このあとの義経のことは観客の誰もが知っていて、最後にほら貝を吹く弁慶の最期のことも誰でも知っているわけで、かえすがえすしみじみ無常感だった。