おもかげをしのぶ六日のあやめかな

気をつけていた甲斐あって、連休明け、さわやかに早起き。体調万全、ちっとも眠くない。とはいうものの、ふさぎの虫だけはどうにもならず、体調がよい分、憂鬱さだけが際立ってなんだかひたすら空虚。が、シベリウス交響曲第3番を聴き始めたとたん、急に気持ちが済みわたってきた。第2楽章があまりに美しくて静かに感激。しばらくベルグルンド指揮ヘルシンキフィルのディスクを強化することに決めた。グールドのバッハ《ゴルドベルク変奏曲》の旧録音、第22変奏のフーガから最後までを聴いたあと、スカルラッティソナタ集、ポゴレリチのディスクを再生しながら身支度をした。

無事に一日が終わって何より何よりと、日没後、京橋図書館へ。先週読んだ「演劇界」の劇評がとてもすばらしかったので、今日は今年1月からの歌舞伎座の劇評を読んでみようと張り切っていたのだったが、いずれの号も棚になくてがっかり。気を取り直して、去年の歌舞伎座を振り返ろうと、去年見た歌舞伎でひとつ選ぶとしたら誰が何と言おうとわたしは3月の富十郎の『吃又』だッ、と、ひとりで熱くなって棚を物色してみたが、1年も前の号は在庫しておらず、再びがっかり。今日はさっさと帰ろうと外に出る直前、気が向いて落語ディスクの棚を眺めると、三代目金馬のディスクに『釣堀にて』という文字があるので、ふと手に取ってみた。ライナーを確認すると、思ったとおりに久保田万太郎の戯曲『釣堀にて』を落語にしたてたものだった。東京落語会が昭和39年に委託して阿木翁助が脚色したとのこと、この落語の存在、今日初めて知った。ウム、やはり図書館に来るとなにかしらいいことがあるものだと、意気揚揚とディスクを借りることに。

帰宅後、さっそく金馬の『釣堀にて』を聴いた。落語の『釣堀にて』は久保田万太郎の戯曲を読んでいるときのような余韻はあまり感じられないものの、中幕の粋筋の女性ふたりの会話のところがなかなかよかった。落語と文人、落語と他の演芸との関わりのようなものにはやっぱりとても胸が躍るものがあって、益田太郎冠者の『かんしゃく』を聴きたくて桂文楽のディスクを買ったときのことや、岡鬼太郎作の『意地比べ』が聴きたくて紀伊国屋寄席に出かけたときのことを思い出して、落語に関心を持つようになったのは歌舞伎がきっかけだったり東京の文人の諸々の本を好んでいたからにほかならないので、そんな原点に立ち返った感覚。

落語の『釣堀にて』はとりたてて面白いものではなかったし、岡鬼太郎の『意地比べ』もあまり面白くなかったのだけれども、太郎冠者の『かんしゃく』は大好き。喜多八さんがたまに高座にかけているようなので、今年の夏はぜひとも聴きたいものだ。

金馬のディスクを聴いたあと、万太郎全集を取り出して、紅茶を飲みながら『釣堀にて』を読み返した。昭和10年代の築地座で、初老の役を三十代の友田恭助が見事に演じたというけれども、どんなふうなのだろう、考えただけで胸が躍る。若者の方は中村伸郎、中幕の女性二人は田村秋子と杉村春子が演じている。そんなかつての新劇の諸相を垣間見ると、それだけでうっとり。……と、本棚の新劇文献をいろいろ読みふけっているうちに夜が更けていった。