歌舞伎座夜の部日記

昨日の昼の部は幕間のあとの『紅葉狩』『伊勢音頭』ではかなりぼんやりしてしまって反省、やっぱり数年見物を重ねることで歌舞伎座行きが単なる惰性的になっている面が多々あるのかも、こんなことではいけない、今後の歌舞伎との付き合い方についてとっくり考えた方がよいかもしれないなアと思った。が、一転して、今日の夜の部は未見の演目も再見の演目もいい感じに堪能、自分にとっては理想的な態度で見物できて、五月大歌舞伎見物をいい気分で締めくくることができた。(と、どうも見物態度にむらがありすぎるので、やっぱりとっくりと考えないといけない。)

さてさて、夜の部は、口上を挟んで、初めて見る『碁太平記白石噺』、何度見たかわからない『勧進帳』、3度目になる『魚屋宗五郎』、それぞれの見物がそれぞれにたのしかった。特に素晴らしかったのが、三津五郎の『魚屋宗五郎』、いいものを見たなあと帰宅の電車のなかでずっと上機嫌、よく「目の正月をした」ということを言うけれども、そんな「目の正月」という言い回しを身をもって実感した気がする。

『魚屋宗五郎』は4年前の五代目歌右衛門追善のときの勘九郎、2年前の松緑襲名のときの菊五郎に続いて、今回の三津五郎は3度目になる。なぜかいつも特別な興行のときに見るめぐりあわせになっている『魚屋宗五郎』、勘九郎菊五郎、それぞれの宗五郎がとてもよかったし、黙阿弥の世話物ならでは世界がいつも大好きだった。先月の『弁天小僧』の記憶が鮮明だったせいもあって、いかにも黙阿弥な舞台がしみじみいとおしかったのと、いわゆる五代目菊五郎の間と段取りを次から次へと「おっ」と目の当たりにする楽しさ、その間と段取りをうまく運んでいくような周囲の登場人物たちの動きを見るよろこび、それら諸々が合わさって形成される芝居のよろこびがべらぼうだったのはいつもの通りで、そんないつもの楽しさを今回はさらにじっくりとじんわりとしみじみとたいへん堪能した。さらに、3度目に見ることで以前はあまり気にとめていなかったドラマそのものの味わいみたいなものにも目を向けることができた気がする。それはひとえにも、三津五郎の深みのある宗五郎がとてもよかったからで、前半のお蔦お手討ちの真相を知るまでの宗五郎のじっとがまんの態のところがとてもよくて、父とお浜と三吉とがいろいろやりとりをしているなかで、じっと煙管をくゆらす宗五郎がとてもよかった。宗五郎はかつて人生を踏み外して妹が殿様の妾になることで生活の立て直しに成功して、以来、禁酒を誓って着実に生活をしてきたらしい、といった感じの遍歴、思いっきり辛酸をなめたあとで今の自分、今の生活があるのだという、そんな実感がこもっていて、一度地獄を見た人間ならではの理知のようなものにぐっとなった。

禁酒を破るところがまた実にすばらしくて、いつもながらに小道具遣いなどの段取りにひたすら驚嘆だった。芝居の運びが音楽のようで、その流れに沿って鮮やかに劇の進行とともに処理されてゆく。宗五郎が帰ってきた直後にお浜が茶を出して、その煙草盆の隣に置かれてある湯のみが禁酒を破るスタートに使われて、お酒2杯目になったところで、目がすわってきて表情が絶妙に変化している三津五郎、次に片口でお酒を飲む前に、湯のみと煙草盆を三吉がさっと片付けて、片口1杯目のあとで宗五郎は酔って暑くなって羽織を脱ぐ、その羽織をお浜が畳んで片付けようとちょっといなくなる隙に宗五郎はさらに酒を飲んであわてて止めに、などなど、いちいち書いているとキリがないけれども、それにしてもまあ見事な魔法のような段取りにひたすらうっとりだった。宗五郎がよいのはもちろん、宗五郎を取り囲む役者さんたちが見事だったゆえに、こんなにもうっとりになったに違いない。いいものを見たなあと心洗われる時間だった。仏壇へ焼香したりとかの人物の立ち位置の変化にも、そのたびになるほどなあと感激だった。今回もしつこく手ぬぐいに注目すると、たしか前半周囲を諭すときに宗五郎が使っていた手ぬぐい、酒を飲んでいる宗五郎の前に手ぬぐいが置いてあるなあと思っていたら、酒をとめようとするお浜との口論の際に宗五郎が手ぬぐいを投げつけて、お浜はふところに手ぬぐいをしまう。その手ぬぐいはあとの磯部屋敷の庭先で目を覚ました宗五郎の顔を拭くときに使われる、などと、いちいち無駄がない。いろいろ観察してそのたびにスカッと快感だった。

お屋敷の玄関で寝こんでしまうときの宗五郎の都都逸のようなもの、屋敷へ向かうときの樽を持って大暴れのときの千鳥足の動きも実によかった、などなど、三津五郎の宗五郎は実に素晴らしかったけれども、宗五郎を取り囲む諸々の人々がそれぞれにとてもよかった。特に芝雀がよかった。芝雀というと、今まで大磯の虎とか六段目の一文字屋お才みたいなちょっととっつきにくい役を演じるときの姿が醸し出す独特の味わい、見た目がなんとなく好きで、今回の『四季三葉草』のときもそんな芝雀の顔面がいいなと思っていたけれども、今回初めて今まで注目していたのとは違う芝雀の新しい魅力を知ることができてウキウキだった。父の松助もよかったし、ちょいと軽い三吉の松緑もよかった。と、ベテランの芝居の端々に、松緑菊之助、新海老蔵とかつての三之助といった御曹司、将来の歌舞伎を担っていく人材が配されているというキャスティングにも胸躍るものがあって、将来、松緑は宗五郎を演じるに違いなく、髪結新三なども手がけるのだろうし、殿様の海老蔵を見ていると、『番町皿屋敷』をぜひとも見たいッ、などなど、将来の芝居見物の夢が広がる。そんな『魚屋宗五郎』全体のアンサンブルに背筋がシャンとしてくる感じ、とにかくも心洗われるものがあった。

……などと、『魚屋宗五郎』の追憶にひたるあまりについダラダラと書き連ねてしまって、時間がなくなってしまったけれども、初めて見た『碁太平記白石噺』、時蔵がいかにもぴったりで、妹の菊之助もたいへんかわいらしくて何度もニンマリ。富十郎の惣六もいいぞー、と思った。出のところにワクワク、そのあとで、ふたりを諭すときのセリフの感じがもうちょっと身体になじんでいればよかったかなあという欲もあったけれども、人情味あふれる理知の人なのに、そんな偉そうなところは皆無であくまで洒脱で軽い、といういかにも江戸の粋人でそんな役柄がとても面白くて、そういう微妙なところが富十郎は絶妙だった。手鏡のところの見得、「似たりや似たりや杜若花あやめ〜」のセリフが大好き、幕切れの「間夫に逢うのは引け過ぎがよかろうぜ」などと、いちいちクーッと洒落ていて、久保田万太郎の俳句みたいな気分だった。こういう粋人が百年くらいたつと時代の変化についていけなくていわゆる敗残の江戸ッ子となって、万太郎の小説や戯曲を彩るというわけなのだ、と、一気に気分は久保田万太郎だった。以前、文楽で『神霊矢口渡』をとても堪能したとき、江戸浄瑠璃の系譜について突っ込んでみようと思いつつもそれっきりだったことを思い出した。これを機に、まずは葵太夫さんの「今月のお役」をじっくりと読むとしよう。→ http://www6.ocn.ne.jp/~aoidayu/kongetsu02.htm

勧進帳』はじっくりと見物しようといつも気合いが入りつつも、いざ始まると雰囲気にひたっているうちに劇が進行していって、あとの延年の舞のところでひたすらウキウキと、『勧進帳』全編を彩る作劇精神を毎回堪能はするのだけど、結局のところはどうもいつも散漫になってしまう。そんな反省をもとに、今回は、前半の雄弁術と見得といった荒事要素に一生懸命目と耳を凝らして見物した。戸板康二の文章の、七代目の荒事味と九代目の洗練味といったようなくだりを見て、前半の雄弁術や見得、後半の踊りとを対照させてみたりもした。前半の雄弁術や見得といった荒事要素の歓びをゾクゾクと身をもって実感できる弁慶をいつの日か見たいというのが、わたしの将来の芝居見物の夢のひとつ。文章で目にするのではなく舞台を見て、そうか、こういうことだったのか! とわかるというふうな弁慶を見てみたいものだ。海老蔵の富樫は姿が立派で声が美しくて、富樫の一回目の退場のところの、「番卒をつれて関守は」になったところの寂しげな舞台、富樫の泣き上げて退場の直前の様子になんとなくグッとなった。ウム、もう一度見たい。

口上で、雀右衛門が初役で『毛谷村』のお園をしたときに相手役が先々代海老蔵だったというくだりを耳にして、戸板康二の本を読み返したくなった。いつも口上を聞くたびに、なにかしら戸板康二の本を読みたくなる。襲名披露に対峙することで、観客の側でもあらためてその家の芸のみならず歌舞伎の歴史やらの歌舞伎そのものに初心に返って接してみようと気持ちがふつふつとわいてきて清々としてくるのが嬉しい。なんて、いつも初心に戻ってばかりなのだけども、今回の海老蔵襲名も気持ちが清々、将来の芝居見物への意欲という点でも申し分がなくて、いい気持ちで見物を締めくくることができた。雀右衛門が早く元気になるといいなあというのが切なる願い。