岩波ブックセンターにて

朝起きて、台風ニュースを聞こうとラジオのスイッチを入れたとたん、窓の外はみるみるうちにきれいな青空になった。窓を開けて、アファナシエフブラームスを流しながら部屋の掃除をした。

薄暮のなか、浮かれ気分で昨日行き損ねた神保町へ。ふらりと三省堂に足を踏み入れたら、ベートーヴェンの《スプリング》のフィナーレが聴こえてきて、その古風なヴァイオリンの響きにしばし聴き惚れた。次は何の曲かなと書棚を眺めつつ音楽に耳をそばだてていると、《ツィゴイネルワイゼン》がきこえてきた。町かどで遭遇する音楽っていいなあと、よい本を何冊か仕入れたあとだったのでよけいに上機嫌だった。

購入本

平日の神保町のいつもの寄り道コースをたどるべく、まずは岩波ブックセンターへ足を踏み入れた。岩波書店の刊行物のみならず、雑誌や文芸書、いわゆる「本の本」など、このお店ならではの並びが好きだ。と、いつもの通り、いい感じだなあなどと思いつつ文芸書コーナーの平積みを眺めていたとき、この山口瞳の新刊が目に入った。同じく河出から先に刊行の『人生論手帖』の隣にあった。「おっ」と手にとって目次を眺めてみたら、思っていた通りに「すみれの花の戸板さん」というタイトルの戸板康二のことを綴った文章が収録されているので狂喜乱舞。この文章、初出は昭和43年の「別冊文藝春秋」で以前図書館で見つけてワオ! とコピーをとって、以来ずっとお気に入りだった。初出誌では山口瞳戸板康二の往復エッセイという形態で、戸板さんの方は「瞳さんの応援歌」というタイトルで『午後六時十五分』というエッセイ集にすでに収録されている。両者とも一見何気ないようでいて、しみじみ巧い文章で、しみじみ見事だなあと、たまに初出誌のコピーを眺めては悦に入っていた。山口瞳の方の文章は今まで単行本には入っていないらしいということを金子さん(id:kanetaku)に教えてもらったりもしていて、もったいなあとかねがね思っていたのだった。

という、戸板康二がらみで大喜びしてしまったけれども、この『わが師わが友』、よくよく見てみると「単行本未収録原稿によるオリジナル・エッセイ集」とのことなので、それだけでたいへん貴重な1冊。もともと「男性自身シリーズ」などで、山口瞳による人物描写はいつも絶品だなあとしょっちゅう、読み返すたびに思っていたものだった。なので、そんな山口瞳による人物エッセイの集積、悪かろうはずがなく、帰宅後はさっそく読みふけって実にたのしい時間だった。こんな本読みの時間が大好きだ。「八月六日のこと」というタイトルの吉田健一の追悼文などなど、今まで単行本未収録だったなんてもったいなかったなあという文章が目白押し。この吉田健一の追悼文に《吉田さんが大衆文学時評を書くようになった。吉田さんの文芸時評にはヒイキ作家がいるのが特徴で、水上勤さん、戸板康二さんは褒められてばかりいた。》という一節があった。うむ、やはり、吉田健一の戸板小説への文章は感動的だったと追憶にひたった。

晶文社の「小沢昭一百景」にも戸板さんに関する文章が収録されている巻があることだし、今回の山口瞳といい、ここ何カ月かで、戸板康二の文化圏のようなものがいい感じで紹介されているわけで、こうなってくると、戸板康二の人物エッセイもいい雰囲気の造本で発売にならないかしらッという野望をどうしても抱いてしまう。

山口瞳の新刊を手にして、わーいわーいとお会計に向かう途中、平積みしてあった岩波ジュニア新書の新刊が目にとまった。いくら日頃から偏愛する樋口一葉に関する本といっても、表紙の感じといいジュニア新書というシリーズといい、ふだんだったら特に気にとめなかったに違いなかったところを、今回手にとったのは、ひとえに著者が関礼子さんだったから。去年のこの季節、図書館で岩波の新日本古典文学大系の明治編の樋口一葉の巻を借りて、あらためてじっくりと一葉を再読して胸がいっぱいだった。その校注を担当なさっていたのが菅聡子氏と関礼子氏だった。岩波の新古典文学大系は注釈がいつもべらぼうにすばらしいといつも感激する。日頃からノンシャランと、読書や音楽や芝居などの娯楽を追求するなかで、なんとなくお勉強の真似ごとをしたくなるのかいろいろと本を手にしているのだけれども、そのたびに専門の研究者の方々の業績に感激してその恩恵に預かって深く感謝してジーンと敬虔な気持ちになる。というふうに、関礼子さんの名前も深く心に刻んでいたのだった。

と、いざ岩波ジュニア新書を手にして、中をペラペラめくってみると、ジュニア向けの入門書という体裁ながらも、というか、それだからこそというべきなのか、入門書という範疇にとどまらない深い内容を有していることは一見しただけですぐにわかった。斎藤緑雨についての詳しい記述があったことも嬉しい限りだった。この本の特徴は、折に触れ一葉の文章そのものを紹介して(現代文も併記)、一葉の文章をたどりつつ一葉の生涯、一葉の交友、一葉の時代、一葉の作品をただるという形態になっていること。200ページたらずの小さな本で、これだけの内容をもりこむ著者の学識にジーン、背筋を伸ばしてこれから先、一葉を読み続けようと急に気が引き締ってしまった。


そんなこんなで即購入を決意して、お会計。岩波書店の来月の新刊案内を入手した。来月16日発売の岩波文庫の新刊、三木竹二渡辺保編『観劇偶評』の説明書きは、

三木竹二は劇評家。鴎外の弟。雑誌『歌舞伎』を主宰刊行した。本書は明治20-30年代の劇評を集成。彼は俳優の演技を克明に記した「型」の叙述により歌舞伎批評に客観性を与えた。九世團十郎、五世菊五郎ら名優の芸が甦る。》

というふうになっていた。思いがけなく一葉の本を買ったあとで、この記述を目にして、一葉日記に描写されていた三木竹二のことを思い出してニンマリだった。一葉の描写する三木竹二は芝居通ならではの軽薄さのようなものがあって、そんなところをしっかりと一葉に観察されてしまっている三木竹二、そんな三木竹二がわたしは好きだ。