鈴本の小三治独演会

週末と同じくわりかし暑い1日だったけど、独演会が終わって外に出てみると、いつのまにか雨がぽろぽろと降っていて、落語を聴いたあと、雨の夜の暗闇のなかを家路につく、という風情がとてもよかった。お土産に鈴本特製の風呂敷をいただいた。帰りの電車のなかで、持ち帰った湯島の地域 PR 誌をめくったら、木村東介の羽黒洞(http://www.h4.dion.ne.jp/~hagurodo/contents/home.html)に関する記事に「おっ」となった。木村東介は、洲之内徹久保田万太郎長谷川利行のことを書く際に木村東介著『女坂界隈』を紹介していたことで、初めてその名を知って、すぐに『女坂界隈』を読んだ。以後、たまに思いもかけない展開で木村東介に遭遇、という事態が何度かあって、小林信彦の本に登場したこともあった。一番最近に遭遇したのは、大島幹雄著『虚業成れり 「呼び屋」神彰の生涯』(ISBN:4000225316)。木村東介は神彰とお友だちだったのだ! それにしても『虚業成れり』は面白かったなあ、と追憶にひたっているうちに最寄り駅に着いた。

    (仲入り)

年に二度のおたのしみ、鈴本での小三治独演会今回で3度目。初めて出かけたのはちょうど1年前の5月31日で『薮入り』と『かぼちゃ屋』を聴いたのだった。演目は1ヵ月くらい前に鈴本に貼り出されるとのことなのだけれども、いつも当日の口演前に初めて知るということとなって、今回は『青菜』と『居残り佐平次』。いずれも大好物の噺なので、大喜びだった。猛暑の週末、連日外出してくたびれてしまった週明けの月曜日の夕べ、うっすらとだるい身体で聴くなりゆきとなった『青菜』が嬉しかった。『青菜』はちょうど1年前くらいにたい平さんの高座で聴いたことがある。お屋敷の庭先の木々からこぼれる太陽光線が見えてくるようで、好きな噺なのだ。小三治の『青菜』はまずは、お屋敷のご主人の会話のときの扇子の動きにゾクゾクだった。縁側で涼をとっている植木屋に風を送っているような感じで、お屋敷の庭先に居合わせているような空間がパーッと広がった。いつもながらに、植木屋の職人風情というか、ご主人が植木屋の水の撒き方を賞賛するあたりの、職人気質の美しさが端々に伺えて、聴くたびに「いいなア……」とうっとりとなる。という、前から大好きなくだりもとてもよかったし、植木屋がお屋敷の生活を観察するところ、庭や家が広いとかそういうことではなくて、たとえば氷がきちんと常備されているところが違うんだよなアと、ちょっとしたところで「お屋敷」を実感する職人、そんな細部描写にぐっとなった。長屋に帰宅後の展開もおもしろくて、女房と友だちの大工の描写も絶妙だった。押入れに隠れていたおかみさんが外に出て来た瞬間、さぞ暑かっただろうというおかみさんの感覚がリアルに伝わってきて、同時に暗闇から突然外に出て一瞬目が開かない感じも実にリアルに伝わってきて、このとき小三治はどういうことをしていたのか記憶があいまいなのだけども、おかみさんの感覚がリアルに伝わってきたことだけは鮮明に覚えている。

今回は長めのマクラはなしで、すぐに噺に入った。『居残り佐平次』はいつも志ん朝さんのディスクを聴いていて、実際の高座は初めてだったと思う。小三治の佐平次、胸の病を仲間に打ち明けるあたりのニヒルな感じが一瞬ソクッと怖くなってくる。一瞬の闇みたいな。「下地がなくて刺身が食えるかッ」とぶつくさ言っている通りがかりの男、佐平次によいしょをされる展開となる男の描写もよかった。サゲは「おこわにかける」ではなくて、仏の顔も3度までをつかっていた。『居残り佐平次』は、とても面白い噺ながらも、ちょっとした凄みもあって、なんとなく一筋縄ではいかない気がする。小三治の『居残り佐平次』を聴いてしみじみ思ったのは、そんな「一筋縄ではいかない」加減。うまく言えないけれども、わかった気になって軽く聴こうと思ってもそうはいきませんよ、と言われたかのような感覚だった。あらためてじっくり聴いてみよう。

今回の独演会全体を振り返ってみると不思議と、ちょっと落語を聴いてみようかしら、寄席に出かけてみようかしらとおそるおそる落語会に出かけるようになったまなしの頃の感覚を思い出した。落語はとっても面白そうだけど、ちょっととっつきにくいところも感じているような、でもスルスルッと決定的に落語に誘われているような、あの感覚。小三治さんばかりではなくて、もちろん、ほかの時間もほんわかと楽しくて、一琴さんの『初天神』は、今まで何度聴いたかわからない『初天神』のなかで一番面白かった気がする。五月末日にきく、端唄の「五月雨」もじんわりとよかった。鎌倉遠足で始まって夏の気配の鈴本で終わった今年の5月だった。