海老蔵の助六

先月下旬、思いがけなく五月大歌舞伎の夜の部をもう一度見物できて大喜びだった。それから十日もたたないうちに、またもや別のさる方のご厚意で思いがけなく六月大歌舞伎の、なんと初日の夜の部を見物できる運びになって、え〜! とびっくり。こんなに嬉しいことはない。と、こんなに嬉しいことはないのは言うまでもないけれど、しかし、ここまで立て続けに歌舞伎見物運(?)が上昇してしまうとかえってコワいという気もする。こ、これはもしや、今後どうにもこうにも歌舞伎を見られなくなる不如意が続く、という前兆なのかもしれぬ。そんな予感がしてきた。となると、見られるうちに思う存分見ておかないとッ。見られなくなってしまったあかつきにはいさぎよくあきらめるとしよう。……というようなことを思いつつ、テクテク歩いて歌舞伎座にたどり着くと、ちょうど『吉野山』の幕が開こうとしているという頃。なにしろ急な話だったので、心の準備が全然できていなくて、歌舞伎を「見物」というよりは、歌舞伎座に「潜入」という心境だった。

芝居見物

突然の見物で心の準備ができていなくて、「潜入」もしくは「下見」というような心持ちだったのだけれども、『助六』の幕が開いた瞬間はさすがにたまらないものがあってシャキッと背筋が伸びて、敬虔な気持ちにすらなって、そのままス―ッと舞台に同化したまま、終幕を迎えたという感じだった。『助六』独特のこの高揚感というのは一体なんだろう。楽しいというか眩しいというか居心地がよいというか、舞台を眺めているときの気分はさながら酒宴のようだった。終わる時間が来るのは確実でそれはよくわかっているのに、ずっとこのまま過ごしたい、ここにひたっていたいというような感覚。今回の『助六』、先月の『暫』のときとおんなじように、ただそこに実現しているだけで完璧だった。こんな豪華な『助六』、めったに見られるものではない。もう二度と見ることはないかもしれない。ふだんの芝居見物とはちょっと違った感覚で、小宇宙を目の当たりにするばかりではなく、その小宇宙に自分自身も一緒に埋没したような一体感のようなものがあった。

そんなこんなで、ぽーっとなってしまって、あんまり詳細は覚えていないのだけれども、『助六』の舞台、次々に登場してくる人々を眺めて、そのたびにニンマリと楽しかった。その次々に登場するのが襲名披露ならではの豪華な顔ぶれで、助六海老蔵で揚巻が玉三郎ということくらいしか事前に配役を把握していなかったので(何しろ心の準備が…)、くわんぺら門兵衛が吉右衛門! 白酒売りが勘九郎! と、そのたんびに嬉しくて素朴に大喜び、彼らが舞台にいるときの嬉しさったらなかった。こういう特別な興行のときにちょろっと登場する吉右衛門というのが毎回大好きで、三津五郎襲名のときの『女暫』の舞台番、松緑襲名のときの『船弁慶』の舟長のことを思い出した。勘九郎海老蔵のコンビネーションも絶妙なものがあってとてもよかった。二人の共演をこの先いろいろ見てみたいものだ。玉三郎の揚巻の登場の瞬間はゴクッと息を飲んで、凝視凝視。花道に登場直後に立ち止まってクラッと酔って立ち止まる仕草を見ていてこっちもクラッとなった。

と、助六をとりかもむ人々が実に豪華でいちいち書いていたらキリがないけれども、なんといっても海老蔵助六が見事というか面白いというか、なんといったらいいのか、姿が美しいのはもちろんだけど、そういう見とれるというだけではなくて、「この男は一体何なんだ!」という感じで、いちいち刺激的で目が離せないものがあった。磁力のように吸い寄せられる。花道での傘を持っての動き、はじめ傘のなかに身を隠して中腰で花道に登場して、姿を現した瞬間、それから河東節に乗って花道で踊る、何度かキマったり睨んだり傘をクルクル動かしたり、その動きのひとつひとつがとても面白くて、助六はここで何を語っているのだろうとゾクゾクだった。それから、戸板康二の文章に、文学者たちのおしゃべりで、助六の芝居の登場人物で一番イヤな奴は助六さ、という結論になった、という挿話があって、久保田万太郎は「助六の素性よく知るつばめかな」という俳句を作っている。……という何年も前から知っている戸板康二の文章でのエピソードを初めて身を持って実感した。海老蔵助六が実に生意気というのか、なんともイキイキとリアルだった。そして、廓が舞台なのだから色ッぽいのは当たり前なのに、ところどころで、こんなに色ッぽくていいのかしらというくらい色ッぽかった。

これまた何年も前から、戸板康二の本で、『助六』は九代目團十郎までは荒事味が濃かったのを、和事味を大きくしたのが十五代目羽左衛門だった、というのを読んでなるほどなあと思っていたけれども、そんな『助六』全体における「荒事」と「和事」ということも今回初めて実感としてよくわかった気がして、そんなわかった気になることで、歌舞伎そのものの面白さがしみじみと身にしみてきた感じだった。助六のところどころの弁舌、睨み、見得などの身体のかたち、たとえば白酒売りが登場してからの下座の三味線といった劇空間の変化、などなど、『助六』全体がさながら「歌舞伎の見本帳」という様相を呈していて、歌舞伎の歴史そのものが眼前にあるみたいだった。それが豪華なキャスティングで実現していて、見物人の一人として劇場に居合わせることで、今そこにあるすばらしき「歌舞伎」の一部分を形成しているんだというような、いつもの他人事がウソのような感覚を味わった。だから、ずっとぽーっとなるしかなかった。

……なんて、すっかり舞い上がってしまった。もともと今週末に歌舞伎座に出かける予定だったので、もう一度じっくりと見物するつもり。今度はもうちょっと自分の見物も落ち着いてくるかな。