文庫本ショッピング、ジャン・ルノワールの『牝犬』

日仏学院で映画を見る前に深夜プラスワンにふらっと足を踏み入れた直後に発見して「おっ」となった。星新一の母方の祖母が森鴎外の妹の小金井喜美子だということを初めて知ったのは戸板康二のエッセイがきっかけだったと思う。小金井喜美子の文章は岩波文庫の『鴎外の思い出』『森鴎外の系族』で読むことができて、岩波文庫の新刊の三木竹二がもうすぐ発売なので、『森鴎外の系族』をめくるしようと思っていた矢先に、小金井良精の名前が飛び込んできたものだから「おっ」だった。帰宅後さっそくペラペラとめくって、杉山茂丸の名前が飛び込んできて、またもや「おっ」だった。『浄瑠璃素人講釈』の著者、夢野久作の父、日活向島撮影所となった土地に別荘を持っていた、などなど、杉山茂丸とはいったい何者なのかと何年も前から気になっていたのが、先日月の輪書林の目録を見て、ますます気になるところとなっていたのだった。日本の近代を彩った人物たちのなんと濃いことだろう。とにもかくにも『祖父・小金井良精の記』の文庫化はたいへん喜ばしい。

今年2月に、ジャック・リヴェットによる、ルノワールミシェル・シモンとの対話をとらえたドキュメンタリー『われらが親父 ジャン・ルノワール』を見て、ひさびさにルノワール映画の快楽を呼び起こされて、次の日は急きょ予定を変更して、同じく日仏学院で上映の『素晴らしき放浪者』を再見という巡り合わせだった。連日メロメロでもうたまらなかった。『われらが親父 ジャン・ルノワール』では、同じくミシェル・シモン主演の『牝犬』のシーンが挿入されていて、そのショットにもドキドキ。『牝犬』の方は未見だったので、未来のおたのしみだなあと、見逃している映画を思うときにいつも思うことを思った。と、あれから何カ月かたって、いよいよ『牝犬』を同じ日仏学院で見る機会がやって来たという次第。

と、ひさびざに未見のルノワール映画を見ることになったのだったが、ああ、もうなんといったらいいのか、ルノワール映画の典型的快楽があふれんばかりに満ち満ちていて、ただただ素晴らしかった。無心にスクリーンにスーッとひたって、ただただスクリーンに埋没していた100分間。こういう快楽が忘れられないがために、映画館行きがやめられないのだと思う。あちこちのショットにとにかくゾクゾクで、この映画を見た人の誰もがはっと息をのむであろう、日曜画家ミシェル・シモンのアパルトマンの窓から裏庭の向かいの少女が住む部屋の窓辺が見えるところ、少女がピアノを弾いているシーンとその音とこちら側のミシェル・シモンとを織り成すキャメラの魔術。映画全体のあちこちに窓や扉が印象的に映っていて、街の女リュリュの坂の途中にあるアパルトマンの窓とその下にある坂道の路上、ミシェル・シモンが街の女と出会う冒頭に登場する階段があとで再登場するところ、などなど、窓から窓へ、扉から扉へ、のショットそれぞれがゾクゾクと快楽だった。リヴェットのドキュメンタリーでも紹介のあった、女が刺されるところのシーンの壮絶さ。坂の途中で辻音楽師たちの音楽が鳴り響いて、群集が集っていて、その喧噪とは裏腹の上の部屋での出来事。ミシェル・シモンを拒絶するリュリュはベッドに寝転びながら本を手にして綴じられたページをナイフで切っていて、その動きがいかにも苛立ちに満ちていて、そのナイフがベッドに落ちて……、という小道具遣いとそれを映すキャメラが壮絶だった。

俳優もすばらしくて、ミシェル・シモンそのものがそのまんまルノワール映画、という感じで、歌を歌うシーンではリヴェットのドキュメンタリーでの会話を思い出してにんまりだった。ジゴロ役のジョルジュ・フラマンもそのまんまルノワール映画という感じで、よかったなあ。なんて、ルノワール映画に出演の俳優はみんな、そのまんまルノワール映画、ということになってしまうのかも。『牝犬』に登場の俳優全員が活き活きと「ルノワール!」だった。帰宅後、ルノワール文献をめくっていたら、ジョルジュ・フラマンとリュリュ役のジャニー・マレーズは映画そのままに恋に落ち、映画の完成後二人で旅立ち、その途中ジャニー・マレーズは自動車事故で他界したとのとことで、そんな挿話がいかにもと思ってしまうような、ちょっと悪魔的ですらあるスゴい映画だった。

日曜画家のモーリスは、編物類販売会社で経理係をしている四十男。妻のアデルはいつも先夫と比較され、会社でもバカにされている。ある晩、若い女リュリュが酔っ払いに殴られているところを助け、彼女に心奪われる。ところが、リュリュは街の女で、ひものデデの入れ知恵でモーリスを金づるにすることになった……。ルノワール的リアリズムが最初に完成を迎えたと言える傑作で、どの音も現場で録音されている。1945年、フリッツ・ラングによって『スカーレット・ストリート』のタイトルでリメイクされている。(紹介文転記)