イオセリアーニに乾杯!

ひさびさに昼休み、散歩に繰り出した。五月に戻ったかのようなさわやかな空気を満喫、と言いつつ、すぐにコーヒーショップに入って、昨日神保町で入手した岩波の「図書」と「東京かわら版」を眺めた。「図書」は高橋英夫さんの連載が毎回たのしみ、「清新なラインナップ、はかない造本、この矛盾の上にたっていた文庫」の山本文庫に関するお話がとてもよくて、何度も読み返したり。今月から堀江敏幸の連載も始まって嬉しいかぎりで、ほかにも面白い文章が多くて、今月の「図書」はなかなかよかった。「東京かわら版」、今月は行きたい落語会がたくさんで吟味に一苦労。なんて言いつつも行き損ねることの方が多いのだけど。……というようなことをしているうちに昼休みが残り少なくなってしまって、あわてて本屋さんにも駆け込んで、週末の読書用に買い損ねていた新書を3冊購入。

購入本

映画メモ

セリフなしで映像と音だけの約50分の映画。ああ、もう大好き! もうたまらない! キャー! とウキウキの50分間だった。映画は「触覚芸術」なのだということをじっくりと実感できる、映像と音の冴えがすばらしい。冒頭の路地から路地への移動と仲むつまじい二人、集合住宅が出来上がって家具などが増えていって倦怠に陥ってゆくサマ、といった映像の積み重ねによる時間の経過をたどることであらわれる寓話性、という見方もできるのだろうけれども、そんなことはどうでもよくて、ちょっとした音楽の連鎖と音の積み重ねが醸し出す音楽みたいな構築にひたって映像を見るのがひたすら気持ちよかった。

映画全体が音楽を聴いているみたいな、メロディに身をまかせるだけでなくて、構成の妙に胸を躍らせているみたいな感覚。たとえば、なにがしかの変奏曲に接するときのように「主題と変奏」というような流れを感じたりとか、「プレリュードとフーガ」さながらの進行だったりとか、交響曲を聴いているときみたいに、ソナタ形式の第一主題と第二主題、展開部、再現部といった構成を映像で感じたりとか、オペラを見ているときみたいに時折挿入される間奏曲やダンスシーン、第一幕から第二幕へ、そして大団円へ、といったような流れ、を映像と音の積み重ねで思ったりとか。勝手な思い込みだけど、そんなふうにして見るのがとてもたのしかった。

何度か挿入される牧場シーンでクラクラ、植田正治の写真を見ているような気分にもなった。牧場シーンに限らず、人工的なアングルの数々がなにがしかのかっこいい写真展を見ているときのような、視覚のよろこびもあちこちで数えきれないほどたいへん満喫。視覚という点では、この映画に登場する町並みや風景はもちろん、調度品や家具などの日用品描写も面白くて、たとえばボナールの絵を見ているみたいに、そこに登場する日常が面白い、といったような歓びも大いにあって、登場する人物たちもみな視覚的にいい感じで、眺めているだけで幸せでもあった。

視覚、聴覚、触覚が組み合わさることで、その組み合わせで「時間」ということを思ったり、二度と取り戻せない「一瞬」ということを感じたりしているうちに、だんだん「人生」みたいなことを漠然と思ったりもする。なんかうまく言えないけれども、とってもよかった。