素敵な歌と舟はゆく

妙に早く目が覚めてしまったので、起き抜け早々、団扇片手にのんびり本読み。『狭夜衣鴛鴦剣翅』の四段目を読み進めることに。道行が始まってさっそくワクワク、新たな登場人物が現われて、そのキャラクターがとてもいい感じ。ここでは『舟弁慶』の謡曲が散りばめてあって、この陽気な人物、歌舞伎で見るとしたら三津五郎がいいかな、どうかな、というようなことを思うのもまたたのし、だった。密度の濃い文章をたいへん堪能。『舟弁慶』というと、同じ本に収録されている『義経千本桜』の「渡海屋」でおなじみであることだし、また初心にかえって、『千本桜』の方もじっくり熟読するとしよう。たのしみたのしみ。とかなんとか、並木宗輔の浄瑠璃のことで頭がいっぱいで一刻も早くおしまいまで見通したいと、折しも今日は水曜日、今週はめでたく映画館へ出かける余力が残っていた、渋谷までの地下鉄でもずっと読み続け、映画が始まるまでは、映画館近くのコーヒーショップでずっと読み続けた。だんだん情勢が緊迫してきて、こういう展開になるのかなと予想して文字を追うと、ものの見事に予想を裏切って、こう来たか! というふうになる。11歳の大人びた気高い少女が登場して、その人物造型にジーンを通り越して、目頭がツーンとなってきた。利口な奴、立派な奴、健気な奴、ううっ、という感じだった。両親と別れて祖父母に育てられた無口な少女、ここに至るまでの陰影を思うと胸が詰まる。……などと、思いっきり感情移入してしまった。四段目も素晴らしかった。というところで、映画の時間になって、帰りの電車のなかでおしまいまでを読んだ。最後の段はあっさり終わるのかなと油断していたら、あっと軽くびっくりのところもあって、最後の最後まで面白かった。

映画メモ

『四月』とおんなじように、隅から隅まで大好き、もうたまらない感じだった。こういう映画をたまにでも見られれば願ったりかなったり、という、好きな映画に遭遇するたびにいつも思うことをしみじみと思った。タイトルバックで心地よいピアノ曲が流れてさっそく浮き浮きだったけれども、この映画も全編に音楽があって、映画そのものが音楽そのままの進行、その流れに身をまかせて、ピンと張り巡らされた縦糸横糸を鳥瞰、と同時に、埋没、というふうにして映画を見通すという、緩やかなどこまでも伸びてゆく流れに身をまかせる快楽が無類だった。なんて心地よい時間だったのだろう思う。

タイトルバックが終わると、郊外の邸宅のホームパーティーの場面になる、そこでさっそく聞こえてくるのが、シューベルトの《美しき水車小屋の娘》の第1曲の「さすらい」、大好きな歌、その音楽が聞こえてきただけでもう琴線に触れて仕方がなかった。そして、次々に目にする耳にする、この映画のなかにあるものすべてがとても好ましくて、ほとんどオールロケのパリの町並みとその郊外シーンが目に幸せで室内シーンも素敵、登場する大勢の人々がそれぞれによく、カラー映像そのものもとても美しい。細部のよろこびと全体のよろこびとが満ち満ちていた。

雨や曇り空が多用されつつも印象は終始明るくて、最後に唐突にパッと青空が映ったりする。映画全体、音楽を聴いているようでありつつも、なにかの絵画を見ているようでもあった。デュフィの絵を見ているときと似た歓びがあった。一言で言うと、幸せな気持ちになる映画。

唐突に、ルノワールが『恋多き女』を撮った際に書いていた「心理描写のない映画」(だったかな)という言葉を思い出したりもした。映画が始まってから何度か目にすることになる、組み立てられた複数のレールの上を走る2つの電車の模型みたいに、近づいたり遠ざかったりすれ違ったりもしつつ、絶対にぶつかったりはしない流れが映画全体を象徴している、なんていうのも月並みだけれども、深刻ぶったりはせず終始軽やかだけれども確実にひとつの大きな流れみたいのがあって、なんとなく「無常」ということを思って、余韻は結構深い。