鎌倉休日日記

foujita2004-07-10


連日の猛暑がたたったのか、せっかくの休日だというのに朝から力が出ず、不覚にも昼寝までしてしまった。あわてて身仕度して、へなへなと外出。東海道線に揺られてトロトロと鎌倉へ向かった。本日の車中の読書はレスコーフ著『真珠の首飾り』(神西清訳/岩波文庫)。午後も遅くに鎌倉に到着、と、結構やる気なくやって来たものの、いくぶんの曇り空で昨日までみたいにあまり暑くなくて、やれやれありがたいことだ、と急に機嫌がよくなった。鎌倉に来るといかにも休日という感じでいつもそれだけで嬉しくて、到着したとたん、ああ、来てよかったとふつふつと思った。そして、目当ての桂吉朝独演会は大満喫だったし、長年思っていた本は買えたし、鏑木清方美術館はすばらしいしで、そもそも鎌倉は来るだけで嬉しいしで、今回も大充実の鎌倉休日となった。これもみんな、かまくら落語会の贈り物、だと思った。

購入本

いつもの通りに通りがかりの古本屋さん、まずは芸林荘をのぞいて2冊ほど目をつけたあと、木犀堂の前を通りかかった。木犀堂まで来てしまえば美術館はもうすぐ近く。と、その木犀堂の店頭でいきなりびっくり。新世社発行の樋口一葉全集全6冊が軒下の安売りコーナーに、ぬるい風にさらされて置いてあったのだった。この幸田露伴監修の一葉全集は前々からとても気になっていた。去年12月に見学した一葉展のときにウィンドウ越しに眺めてうっとりしていたのも記憶に新しい。とにかくもう、わーいわーいと大喜びで、重たい荷物もなんのその、迷わず購入だった。

一葉の全集は菊地信義の装幀の小学館版を所有しているものの、戦前の新世社版全集は、久保田万太郎が担当した巻で実は青年・戸板康二が註釈を手伝った、ということを戸板さんの文章で知って以来、ずっと気になっていた。しかし、戸板さんのエピソードを抜きにしても、一葉好きにとってはとてもそそられる全集で、なんといっても関わっている顔ぶれがすごい。全巻の監修者として幸田露伴を擁し、それぞれの巻の編者・校註は、第1巻「小説1」が佐藤春夫、第2巻「小説2」が久保田万太郎、第3巻「日記1」が平田禿木、第4巻「日記2」が小島政二郎、第5巻「書簡文範 随筆 和歌」が萩原朔太郎、別巻の「樋口一葉研究」が和田芳恵というふうになっている。装幀は木村荘八で、扉の意匠は鏑木清方……と、一葉をとりまく文化圏みたいなものが実感としてよくわかるような感じで、日頃からたまらなく惹かれる美意識(のようなもの)の源流にぼんやりと思いを馳せさせてくれるという気もする。濃紺にも紫にも茶色にも見える微妙な色合いの木村荘八による小ぶりな函がとてもいい感じ。各巻はそれぞれの担当者による後記が付いていて、萩原朔太郎のあとがきがなかなかのみものだった。註釈もそれぞれの巻の編者が行ったようで、眺めているとたまにちょろっと主観的だったりするのも面白い。小島政二郎担当の巻では、ある箇所の註釈で「ヤな奴だなあ」と思ったりも。

それにしても、鏑木清方美術館に向かう途中の小町通りで念願の一葉全集を(廉価で)手に入れたというのはあまりにも出来すぎな展開だった。鏑木清方美術館では、お土産に新発売の《にごりえ》の絵葉書セットを買った。午後6時の閉店までイワタコーヒー店で「ぢんちょうげ」片手にホクホクと一葉全集の月報を読んだり、清方の《にごりえ》を眺めたりした。全集の月報には清方の文章があったりもして、一葉と清方つながりの鎌倉の休日だった。

講談社文芸文庫が500円以下で売っていると一気に得した気分。一葉全集の勢いにのって吟味して、今日のところ上記3冊を選別。武田麟太郎は、堀切直人さんの『浅草』で一気にそそられたところだったのでグッドタイミングだった。浅草小説のみならず井原西鶴についての文章も入っていてさらにグッドタイミングだった。


展覧会メモ

  • 清方八景(第二景 自由画を志しての巻)/鏑木清方記念美術館 *1

入口付近のロッカーに重たい荷物を預けて、いざ清方! と、何度も何度も来ているというのに、いつものように大満喫だった。ずっとこの場所にこの美術館があって欲しいと心から思う。今回のおみやげは、前は売っていなかった《にごりえ》絵葉書セット。全15図のうち8枚を収録している。ワオ! と、こんなに嬉しいことはなかった。《寺子屋画帖》も絵葉書になるといいなと思う(ならないのだろうけど)。次回の展覧会は「第三景 明治の風俗の巻」で「樋口一葉の文学に関する作品を中心に」となっていたから、もしかしたらまた《にごりえ》に再会できるかも。会期は7月30日から9月5日までなので、夏休みに行けたらいいなと思っているところ。葉山の近代美術館にも行きたいので迷うところではあるけれども。

今回の展示は、挿絵画家として出発した清方が自由画を志した頃、明治・大正の作品を中心に展示している。まっさきに見ることになったのが、《霽れゆく村雨》という大正4年の大きな絵の下絵。蓮の花が咲き乱れる小道の脇を傘を持った女がふたり風雨に向かって歩いているという図。完成品の方は関東大震災で焼失してしまったのだそう。この大きな作品の後ろには、前はなかったチェスト状のガラスケースが用意されていて、見学者は引出しを次々に開けて作品を見ることができる。これが実にすばらしかった。いくぶん暗い照明の下でじっとガラスケース越しに清方のスケッチブックを凝視することになって、その線のひとつひとつ、色彩の微妙な感じを間近で見ることができて、とにかく眼福だった。《霽れゆく村雨》と同じ絵をさっそく見ることになって、同じ絵も大きな下絵で見るよりも小さなスケッチブックで見る下絵の方がいかにも清方らしくて、清方の典型的眼福に満ち満ちている。スケッチブックの方の《霽れゆく村雨》の二人の女は鈴木春信の浮世絵を見ているかのようだった。引き出しのなかのスケッチブックは花の絵が多くて、その季節感がとても嬉しかった。立ち去りがたくて何度も凝視だった。

鏑木清方の作品は、大きな美術館にあるような大きな作品よりも、こういうガラスケースで見るのがいかにもぴったりな小品、いわゆる「卓上芸術」の作品の方がずっと好みで、その清方の「卓上芸術」の魅力を思う存分知ることができたのはひとえにも雪ノ下の鏑木清方美術館のおかげだった。その歓びの根幹を、あらたに登場した引き出しでしみじみと味わうことができて、嬉しくてしょうがなかった。と、大喜びだった新登場のガラスケースや「卓上芸術」的小品のほかにも、金沢文庫の別荘での夏の日の家族をモデルに描いた絵を立て続けに見ることになって、たとえば夏の朝、まだ月が出ている時刻に一緒に散歩をした娘をモデルにした《朝涼》、夫人をモデルにした《襟おしろい》、いずれも大正末期の作品で、そこにあらわれる季節感と着物などの女性風俗とが一体化していて、家族との夏の日々からその美しさを見出して、作品にしたてている清方の画家としてのまなざしがいいなアとしみじみとなった。


落語メモ

と、古本屋さんと美術館と喫茶店だけでもずいぶんたのしくてはるばる鎌倉にやって来た甲斐があり過ぎたのだけれども、さてさて、そもそもの来訪目的はかまくら落語会の桂吉朝独演会。身体全体で思う存分満喫。好きになってしまった吉朝さん、という感じで、上機嫌でのんびりと家路についた。これからしばらく上方落語を強化したいとちょっと決意。なんかもう、本当によかったなア……、と鎌倉から帰ってきて以来、何度も思い出してはぼーっとしている。

去年9月に雲助師匠の独演会で訪れたのが初めてだった「かまくら落語会」は今年1月の喜多八、3月のさん喬に続いて4度目。とてもたのしみだった5月の志ん輔独演会は、うっかり歌舞伎と重なってしまって無念だった。そんなこんなで3月以来のかまくら落語会だったわけだけれども、今回は初めて、未聴の噺家さんの独演会となって、聴き始めがかまくら落語会というのがまずは嬉しいかぎり。日頃から憧れてはいるけれどもまだあまり馴染みのない上方落語をたっぷりとたのしめるプログラムで、さあどんなだろうと無心にひたって無心に堪能という感じ、いつもながらに会場の雰囲気がとてもよくて心洗われる時間でもあった。それにしてもなんて楽しいひとときだったことだろう。

田楽というのは味噌をつけて云々という前置きがあったあとであとでサゲにつながるという展開が愉快で、そんな食文化が絶妙に溶け込んでいるのもよかったし、御堂筋と堺筋という大阪の町並みもよかったし、そこで働く大阪商人、そこで遊ぶこまっしゃくれた子供たちの会話もよかったしで、『馬の田楽』を構成する要素のひとつひとつがとてもよかった。宗助さんの『七度狐』はいかにも上方落語らしく途中でお囃子が入って、お囃子が入るといつもそれだけで大感激なので「クーッ」と興奮だった。仕返しをたくらむ狐が歌舞伎の狐忠信みたいな狐言葉になっているのも愉快だったし、お伊勢参りの道中という風土もよかったし、その二人連れの会話がそのままボケと突っ込みになっているのもよかった。狐に化かされて大きな河を渡って行こうというところでお囃子が入って夢から醒めるようにしてすーっと現実に戻ってゆく展開が絶妙で、あとの怪談噺めいたところも愉快愉快。……などなど、全編「愉快愉快」の一言だった。

と、ここまでですでにたっぷり満喫だったけれども、本日の主役の吉朝さん登場で、さらに愉快愉快となった。吉朝さんは初めてだったけれども、そこはかとなくただよう風格にうっとり。これから機会があればすかさず聴きに出かけたいなと思う。『百年目』は志ん朝や「圓生百席」のディスクでおなじみだったけれども、やっぱりいかにも上方だねらしく、上方落語で聴く方がぴったりだなあと思った。旦那の人柄の絶妙なところがちょろっと『はてなの茶碗』の茶金を彷佛とさせて、そのやわらかさ加減がいかにも上方という感じだなあということが、今回吉朝さんの口演を聴いてよくわかって、ホクホクだった。志ん朝の『百年目』も「圓生百席」もそれぞれに大好きなのだけれども、旦那のくだりがどうしてもちょっと教訓めいてしまうのが鼻につかなくもないのだった。『百年目』の聴きどころは旦那のくだりの前にもたくさんあるのではあって、それぞれのくだりもとても面白くて長丁場を全編堪能だった。やっぱりお囃子が入る瞬間にウキウキだった。大店の場所は志ん朝圓生だと日本橋だったか浅草だったかのが上方では船場で、番頭さんに叱られる面々の清元好きは上方バージョンだと義太夫好きになり、謡の会というところでは共通で、花見の舞台が隅田川なのが上方では……、といったちょっとした比較も面白かった。もうちょっと老成した感じになったらさらに違った味わいになりそうで、何年かたってまた吉朝さんの『百年目』を聴きたいものだ。という気にさせてくれる、とても素敵な『百年目』だった。

そしてさらに『首提灯』もすばらしかった! 日頃重宝の『増補 落語事典』(青蛙房)によると、サゲは東京と同じだけど、上方版の『首提灯』というのは、『上燗屋』から入って『首提灯』へとつながってゆく、その全体を『首提灯』と称しているとのこと。なのでかなり長くなって、これまた全編たいへん堪能だった。上燗屋でもあとの道具屋でもずうずうしいところを発揮するお客、その描写のひとつひとつがとても面白くて、特に道具屋での毛抜きの描写がよかったなあと思い出してうっとり。上燗屋の食べ物、道具屋の小道具などの細部描写も面白くて、だんだん苦りきってくるそれぞれの店主もよかった。首提灯へとつながってゆく仕込み杖という小道具にもワクワク、都筑道夫ショートショートのことを思い出したりも。

……などと追憶にひたるあまりについダラダラと書き連ねてしまったけれども、まとめてみると、それぞれの噺がそれぞれにべらぼうに面白い上に新たによい噺家さんに出会って、いいことづくめの一夜だった。上方落語をこれからちょっと本気で強化したい。

最後に、さる方に教えていただいた、とてもいい話。かまくら落語会の会場沿いの若宮大路を海の方向にちょっと行った先に、大きな栴檀の木があるとのこと。吉朝さんの『百年目』の記憶を胸に、今度鎌倉に出かけた折にはぜひとも探してみたい。と、メモ。