展覧会、文庫本、音楽

foujita2004-09-20


早起きして午前中は松濤美術館瑛九の展覧会を見物。最終日ギリギリになってあわてて出かけるという事態になってしまったけれども無事に見られて本当によかった。午後はとある所用。その所用の帰り、ひさしぶりに「欲しい文庫本が200円で売っているお店」の前を通りかかった。さア、今日はどうかなと試しに足を踏み入れてみたら、今日もものの見事に欲しい文庫本が200円で見つかった。150円でも見つかった。と、ここで少し機嫌がよくなったものの、今日は蒸し暑くてずいぶんくたびれた。この三連休はぜひともやり遂げようと思っていたことがあったのだけれども着手すらできないまま時間だけが過ぎてしまった。むなしい。ウツウツと電車を降りて力なく階段をのぼると、前方からウワッと生暖かい強風が顔面を直撃し、まさしく「嗚呼、おまえはなにをして来たのだと、吹き来る風が私に云う」というような心境になりさらにウツウツになって帰宅すると、たのしみにしていた古書目録が届いていて急に上機嫌。そして、「皓星社通信(http://www.libro-koseisha.co.jp/top11/back_number.php)」の濱田研吾さんの文章がとても面白くてさらに機嫌がよくなった。荻原魚雷さんと濱田研吾さんの文章が読めるメールマガジン、こんなにおもしろい文章が無料で読めるなんて便利な世の中になったものだなあとファン大喜びなのだった。夜ふけ、内田光子さんのシューベルト即興曲集を聴きながら、古書目録を何度も眺めて、うーむと悩んで、さらに夜が更けた。ロザムンデ変奏曲が胸にしみいる。


展覧会メモ

ひさびびに松濤美術館でじっくりと絵を見る休日の午前。地下1階は晩年の大きめの油彩を展示していて、2階はエッチングや最初期の瑛九瑛九となった頃のフォトデッサン。このフォトデッサンがとてもかっこよくて、こういうのが大好きだ。それらの瑛九の作品と合わせて、玉井瑞夫による《瑛九逝く》と題したフォトエッセイを見ることができて、一人の芸術家の生涯というものをシンシンと感じることになって余韻が深い。フォトエッセイを見たあとで、もう一度地下の油彩を見に行った。展覧会のあとは、図録が置いてある黒いベンチで、次々に図録閲覧。海老原喜之助の図録がとても欲しくなってしまってしばらく悩む。悩みつつ何度もページを繰った。今度の松濤美術館行きのときに買おうと決めた。

購入本

新・読前読後(id:kanetaku:20040817#p1)で刊行を知って「え〜!」とすぐさま買いに行こうと思いつつそのまま1カ月が過ぎたところで、200円で発見。

新・読前読後(id:kanetaku:20040529#p1)で存在を知って「いつか手に入れたいものだなあ」と思っていた『昨日のツヅキです』は150円。帰りの電車のなかでさっそくペラペラとめくった。あとがきに、《これらを書きすすめているあいだ、私の意識にはいつも、江戸時代の随筆があった。》として、都筑道夫の愛読者でもあった岡田甫の著書、『川柳末摘花評釈』のことを紹介しているくだりがあって、こういうところがたまらないのよ! と、あらためて都筑道夫に惚れ惚れなのだった。何冊か並んでいた都筑道夫著作を眺めて、もう1冊は解説が山田宏一さんの『殺されたい人 この指とまれ』に決めた。いかにも山田宏一さんらしい「あまりにも映画的な側面にばかりこだわりすぎた」解説につい胸がキュンとなった。山田宏一さんが都筑道夫を初めて知ったのは、都筑道夫が脚本を手がけた『100発100中』、『なめくじに聞いてみろ』が原作の岡本喜八の『殺人狂時代』だったという。そういえば、わたしも都筑道夫に初めて接したのはこれら2本の映画だったのだなあと思った。


聴いている音楽


先日突発的に、棚に適当に手を伸ばして出てきたディスクを本日のレコードにするという、いわばディスクの虫干しを始めてみたら、案外たのしくて、まだまだ続いている。先週は平日の日記をさぼってしまったので、ここに先週の「ディスクの虫干し」記録を。

金曜日にリパッティショパンを聴いてムターを追憶していたところで、週末が終わって、月曜日になって出てきたのはムターのディスク。わたしの音楽聴きがいかに狭く浅いものかがよくわかる結果となっているけれども、この部屋にあるディスクはわたしの持ち物の三分の一くらいのとりあえずのお気に入りだけがあるはずなので、まあ、しょうがない。ムターは1998年末に出たベートーヴェンソナタ集に思いっきり夢中になった。ペンデレツキもその頃に出たディスクだったと思う。ムターに捧げた新作で、結構なお気に入りで結構聴き込んでいる。ディスクを聴いてから1年くらいたったあとで、マズア指揮ニューヨークフィルハーモニックをバックにムターが弾くのを生で聴く機会があって、ディスクの演奏とはずいぶん違って、ますます進化というか深化しているような印象を受けて、たいへん感激して今でも忘れられない記憶となっている。日本での初演は諏訪内さんなので、いつか諏訪内さんのも聴いてみたいものだと思う。余白に入っているバルトークソナタは、好きなヴァイオリンソナタを3曲選ぶとすると必ず入りそうなくらいの好きな曲(もう1つはドビュッシー、とすると、残りの1曲は何かな)。バルトーク弦楽四重奏をぜひとも聴かねばと思っていて長年の懸案。バルトークソナタシゲティバルトークのディスクが大のお気に入り、そのレコードもそのうち虫干しできることだろう。早く聴きたい。

火曜日はモーツァルト。大好きなディスクが出てきて、朝っぱらから大はしゃぎだった。と言いつつ、《ハイドン・セット》は最初の2曲の K.387 と K.421 と、K.465 の《不協和音》の3曲しかまだ聴き込めていないという体たらく。でも、この3曲だけでも至福。というわけで、朝は最初の2曲を聴いてウキウキ、帰宅後の夜はひさびさに《不協和音》を聴いた。

これを機に《ハイドン・セット》強化月間に突入しようかとも思ったけれども、虫干しを続けることにして、水曜日はブラームス。朝っぱらからちょっと重たいなあと一瞬棚に戻してしまおうかとも思ったれれども、ルールは守らねばならぬ。朝は第2楽章にジーンとひたったあとで、第3楽章にノリノリになって外出。帰宅後の夜、じっくりと第1楽章を聴いた。1997年3月に初めてウィーンに出かけたとき、ムジークフェラインの看板に次月の公演案内があって、ブラームス歿後100年を記念したプログラムとなっていて、むやみに感激していた。ポリーニのこのディスクはそのときのウィーン公演のライヴ録音。このディスクを買ったとき、初めてウィーンに行ったときのことを思い出した。その重たいところも含めて、ブラームスのこの曲はもともと大好きな曲で、このディスクはそのひとつの理想型となっているくらい見事なものだと思っている。夜、第1楽章をじっくりと聴いて、オーケストラの響きにも聴き惚れて、猛烈に生のオーケストラの音を聴きたくなってしまった。

木曜日の朝、このディスクが出てきたときは本当に嬉しかった。ああ、ラズモフスキー! と大好きな曲。さっそく再生して、冒頭のチェロの音でさっそく大喜びで、ひさびさに大好きな曲を聴くときってなんてたのしいのだろうと素朴なよろこびにひたった。第1楽章もよいけれども、第2楽章のスタッカートの響きが本当にもうとにかくすばらしい。ベートーヴェンの円熟、余裕たっぷりの大人の音楽。こういう音楽がわたしは大好きだ。ラズモフスキー第1番の第1楽章の冒頭のチェロの音が素敵な箇所は、ゴダールの『恋人のいる時間』で何度も何度も挿入されていて、映画のなかのクラシックでもっとも印象に残っているもののいひとつ。『恋人のいる時間』では第14番の第4楽章も印象的に使われていて、『カルメンという名の女』ともども、ゴダールベートーヴェン弦楽四重奏づかいが実にうまいものだと思う。

しばらく《ラズモフスキー第1番》を聴いていたかったのだけれれども、虫干しを続けることにして、金曜日はショスタコーヴィチ。朝っぱらからショスタコーヴィチ交響曲は聴きたくないなあと思いつつも、しょうがなく再生して、6番のフィナーレにノリノリになったところで外出。曲そのものは好きなのだ。以前、ショスタコーヴィチ交響曲を強化していた時期があって、そのときに買ったディスクだと思う。6番はチョン・ミュンフン指揮のフィルハーモニア管弦楽団の実演で聴いたことがあるので、とても愛着がある。第1楽章の綿々と続くラルゴがたまらない。