モーツァルト,ルバイヤート、朝の波紋

foujita2004-09-21

聴いている音楽

ウツウツと連休明けの朝を迎えたところでこのディスクが出てきたときは救われた思い。いつどんなきっかけで買ったかは全然覚えていないけれども、とても聴きこんでいたディスクなので嬉しかった。ひさしぶりに手にしてどんな曲だったかしらと再生して、K.174 の第1楽章の冒頭がきこえていたときはたまらないものがあった。ザルツブルク時代のモーツァルトのこの五重奏ははじめからおわりまで大好き。弦楽五重奏とは何か、弦楽四重奏曲ヴィオラがもう1挺加わって弦楽五重奏曲となるとこういう音の厚みになるのかあということがイキイキと実感できる、モーツァルトの各楽器パートのそれぞれの処理がすばらしい。対位法という言葉を身をもって味わうことができる第4楽章も好きなのだった。若き日のモーツァルトがやる気満々で音楽を作っているなあという感じでとっても微笑ましい。モーツァルトの弦楽五重奏は K.515 と K.516 の2曲が傑出した知名度を誇っているけれども、死の前年の K.593 も好きな曲。聴く頻度はこちらの方が多いかも。やっぱり対位法の処理がとても面白い。モーツァルトというと、いつもはついうっとりしてばかりだったけど、このディスクは曲の構成につい思いを馳せてしまうようなキリリとした演奏でだいぶ好みなのだった。モーツァルトの弦楽五重奏は何年も前からブダペスト四重奏団の往年の名盤を聴きたいと思いつつ、いまだ果されていない。


購入本

昼休み、いつもの本屋さんに出かけていろいろと本を見たあと、岩波文庫の無料冊子、『読書のすすめ』が置いてあったので1冊いただいて、コーヒーショップへ移動してペラペラとめくった。目次の並びを眺めてみたら読んだ記憶がなかった気がしたのでなんとなくもらってきたのだったが、よくよく見てみると、去年の8月に発行されたものだった。単に余っていたのが置いてあったらしい。去年に《私の好きな岩波文庫 100》というフェアが催された際に刊行された冊子であった。まあ、読んだことのないのはたしかなので、ぼーっと読み始めてみると、思いがけず興奮。

冒頭の池内恵氏の文章に惚れ惚れしてしまった。高雅な筆致がとてもいい。イスラム文明における書物について書かれていて、井筒俊彦訳の『コーラン』のことがちょろっと登場したところで、急に井筒俊彦のことを追憶。10年以上前になぜか井筒俊彦に心酔していた時期があったのだった。その頃の読書はあとの読書と全然つながっていないくて記憶の彼方へと行ってしまっている。池内氏の文章の中心は《私の好きな岩波文庫 100》に名を列ねているオマル・ハイヤームの『ルバイヤート』について。19世紀のイギリスで初めて西洋社会で紹介されたこと、日本への最初の移入はその英訳を介してだったこと、そこには旧制高校の学生たちの「自負心と綯い交ぜになった不安、「ニヒル」への怖れや憧憬の念と響き合」っていたことなどが書かれ、岩波文庫の小川亮作訳『ルバイヤート』はペルシャ語文献から直接訳されたもので、そこには「日本でいえば、俳句、あるいは小唄・端唄のような風情がある」という。……などと、10年以上前の自分自身の読書体験を急に思い出してノスタルジックになったあとで池内恵さんの文章にうっとりしたことで、なんとしても『ルバイヤート』を手にしたくなった。巻末の100冊リストの解説を眺めてみると、『ルバイヤート』の隣に岡倉覚三の『茶の本』の名があり、解説が福原麟太郎とあるので、こちらも欲しくなった。というところで、昼休みが終わった。

駅から自宅までの通りがかりの本屋さんに足を踏み入れて岩波文庫コーナーに直進すると、やれ嬉しや、目当ての本が2冊とも在庫があった。ガバッと手にとってレジに直進。帰宅後さっそく『ルバイヤート』をめくってみると、充実した解説がすばらしい上に、短い4行詩が日本語になっている感じもとてもよかった。これからしばらく寝床本になりそう。『ルバイヤート』だなんて一生手にとっていなかったであろう本をひょんなことで読むことになるなんて、まったく何が起こるかわからない。『ルバイヤート』のことを知ることができて本当によかったと思う。池内恵さんに感謝なのだった。『茶の本』は著者、岡倉天心の弟の岡倉由三郎が序文を書いていて、その岡倉由三郎は東京高等師範学校の教授として一生を終えていて、そのときの教え子が訳者の村岡博で、福原麟太郎も同窓だったとのこと。

映画メモ

高峰秀子は商社で秘書をしているバリバリに働くキャリアウーマン。戦争で恋人を亡くしていて、仕事に没頭することで悲しみを乗り越えようとして今日に至っているらしい。対する池部良高峰秀子の恋人と同じように戦時中は南洋に行っていた。高峰秀子の家では戦争でお父さんを亡くした少年を預かっていて、その少年を媒介に二人は出会う、というところが発端で、『煙突の見える場所』と似ているといえば似ている、まだまだ戦争が人々の心にズシリと影を落としていた敗戦後の東京が舞台の、典型的「戦後日本映画」。『煙突の見える場所』と同じように三浦光男のキャメラが素晴らしくて、特にロケ地の東京の町かどが映るときの自然光での撮影にうっとりだった。あちこちでクラクラと映画的歓びが全開。全体的にはちょっと冗長な感じもするのだけれど、そういうところも含めて、時折キャメラにドキドキしつつ、映画全体の雰囲気にぽわーんとひたるのが楽しかった。五所平之助の洒落っ気のようなものが全体に通奏されている感じで、この監督のセンスがいいなあと思った。五所平之助は「いとう句会」のメンバーなので「いとう句会」研究気分も盛り上がった。何年も前から見たいと思いつついまだ未見の『マダムと女房』をいつの日か見るのがたのしみ。

昔の会社風景やお仕事をする女の人を見るのが昔の日本映画における大きなたのしみのひとつなので、それだけでこの映画はバッチリとハマッていて嬉しくて仕方がなかった。小さな商社でキリキリと働く高峰秀子と大商社でのんびりふうの池部良という対比が面白くて、池部良のキャラクターがとてもよかった。いかにもお坊ちゃん育ちの鷹揚さが池部良にぴったり。家を訪ねると、突然着物姿で風流にお茶をたてていたり、実は経済学が好きでケインズの原書を愛読、高峰秀子をデートに誘うべく日比谷公会堂で開催のメニューインのリサイタルのチケットを持って来たり、などなど、わたしの琴線は刺激されまくりであった。メニューインのヴァイオリン姿が見たい! と、映画の途中、本気でデートの実現を祈ってしまったけど、残念実現ならず。などと、池部良の好演がとてもよくて、「池部良鑑賞映画」という様相も呈していたのだった。少年の母の三宅邦子もよくて、なぜか香川京子が修道女の端役で出ているのも嬉しかった。と、ヒロインの高峰秀子が輝いていたのはもちろん、対する池部良がすばたしく、まわりの俳優もよくて、映画全体のムードがとてもよかった。

フランス行からの復帰第1作で、貿易会社に勤める敏腕秘書(高峰)とライバル会社の青年(池部)との交流を爽やかに描く。冒頭から流暢な英語を話すなど、高峰のきびきびした演技が心地よい。撮影中の高峰は相手役よりも、見学に来た原作者・高見順の美男子ぶりに魅了されたという。(チラシ紹介文より)