国立劇場の『柳澤騒動』

foujita2004-11-21


先月に引き続いて今月も国立劇場で芝居見物、今月もよいお天気で嬉しかった。意気揚々と自転車に乗って早めに外出、先月と同じスターバックスで、読みさしの出口裕弘著『辰野隆 日仏の円形広場』を読んだ。まだまだ時間があったので、ちょっと早めに劇場に行って、演芸場の資料室で《新収蔵資料展》を見物。念願の、明治24年の黙阿弥『風船乗評判高閣』の錦絵を見られて嬉しかった。明治23年、スペンサーの風船乗りと同じ年に開業した「十二階」と「パノラマ館」に思いが及ぶように展示してある周囲の絵にすっかりいい気分。噺家と歌舞伎俳優を組み合わせた見立て絵が面白くて、そんな明治の芝居と落語にもうっとりだった。

今月の国立劇場は黙阿弥の復活狂言。事前に『黙阿弥全集』で脚本を読むことができたのがなんといっても嬉しかった。脚本を読んでいるとき、中幕で「浅妻船」の所作事があって、そのあとに大津絵が登場したところで急に興奮だった。何年か前の歌舞伎座でたいへん堪能した鴈治郎の『大津絵道成寺』のことを思い出して、当時の筋書を手に取るべくカオスと化していた棚を整理整頓することになって、『黙阿弥全集』のおかげで懸案だった整理整頓も済んでめでたしめでたしとなった。

急に気持ちが盛り上がって、柳宗悦の大津絵に関する文章を読もうと決意。次回の図書館行きがたのしみ。と、以前、日本民芸館で購入した大津絵の絵葉書を取り出したりと、いろいろと盛り上がって、近松の『吃又』のことを思い出したりも。ということをしているうちに、岩佐又兵衛のことが急に気になった。と思っていたら、新・読前読後(id:kanetaku:20041121)に岩佐又兵衛展のことが書いてあるのでびっくり。またもや、なんというシンクロニシティ! 思えば、金子さんとお知り合いになったのは、歌舞伎座で『大津絵道成寺』を見た頃であった。懐かしいなあ。

芝居見物

ふと思い立って、行きつけの京橋図書館で検索してみたら、春陽堂の『黙阿弥全集』がしっかり所蔵されているので大喜びだった。よくよく見てみると『日本戯曲全集』も所蔵されていて、先日胸を躍らせた、並木正三の『三十石よぶねのはじまり』もこれで読めばよかったのだった。先月は、近松半二の『伊賀越道中双六』を全段読むめぐりあわせになったので、せっかくなので国立劇場の歌舞伎を見物しようと出かけてみると、思っていた以上にたのしい芝居見物となった。ので、ちょいと味をしめて、今月も事前にテキストを読んでおいて、それがどう舞台化しているかを見る、という見方でもって見物をしようではないかと、今月も国立劇場へ出かけることになった。

明治8年中村座上演の『裏表柳團画』。五代将軍綱吉に気に入られて出世した柳澤、柳橋の船宿の主・忠五郎。自分の妻をさしだして権力者を利用すことで利得を得ようとしているという点で共通している、時代と世話の世界が交互に描かれるという趣向の狂言。と、「趣向」そのものはとても面白くて読み始めた当初は胸躍らせてグングンと読み進めることとなった。が、読み進めるにつれて、だんだん気持ちがすさんできた。このお芝居には「趣向」以外に何があるのだろうという気がしてくるし、なんといっても、自分の妻を差し出して利得を得ようとする了簡がいやだなあと思う。物語を味わうというよりも「趣向」を見る、四役を演じ分ける團十郎や半四郎の「芸」を見る、というお芝居なのだろう。が、さらに読み進めていくと、今度は三間右近、井伊掃部頭のくだりがとても面白くて、團十郎の「裏表」の二役を見ているうちにすさんだ心が、團十郎の残りの二役を見ることで一転急に洗われたのだった。と、全体を通してみると、面白いのだかつまらないのだかもよくわからない、ところどころが冗長過ぎるし辻褄が合っていない気もする。あまたある黙阿弥の作品のなかで、名作とはとても言い難いのは確かであった。しかし、細部ではいろいろと興味深いところもあって、脚本を読んだのはとてもいい経験だった。

と、いったんは通読した『柳澤騒動』、明治以来上演が絶えていたお芝居は現代にどう甦っているのかを見物、という感じで劇場の椅子に座った。通して見てみると、船宿の「世話」の方は「趣向」のためだけに存在しているという感じで影が薄いような気がするのだけれど、脚本を読んでいるときに楽しかったのは、「時代」「世話」の両方に四季が同時進行で盛り込んであるということ。桜の花が咲く季節で始まって、鏡開きの季節が描かれて、お芝居が終わる。夏の嵐、雷が鳴ることで「時代」から「世話」へと変換し、すっかり柳沢の計略にはまった綱吉が掃部頭に苛立つところでは庭園の紅葉が美しく、三間右近のところでは冬の閑をたのしむ茶室、最後の木場での立ち回りは雪景色。と、脚本でうっすらと堪能した四季が丁寧に美しく舞台化していたのが一番の眼福だった。それから、やっぱり『浅妻船』のくだりが嬉しくて、こんな夢見のシーンが大好きだ。『東海道四谷怪談』で伊右衛門が美しいお岩の夢を見るところを思い出した。あのシーンも大好きだった。と、『浅妻船』を媒介に「時代」から「世話」へと変換するところが特に嬉しかった。

全体的には、脚本でたどった成り行きを舞台で再体験という、そんな見物がそこそこ楽しかった。幕開けで、歌を上手に詠むことで殿様の歓心をかう柳澤のくだりは、脚本でも好きだった箇所。近習の4人、春川右門、夏川繁蔵、秋田豊太郎、冬野雪之助というネーミングに大笑いだったけど、舞台でもこの4人が面白かった。「ニンにあう」というのがこういうことだと身を持って実感できる田之助桂昌院が見事。気品あふれるお殿さまの菊之助もとてもよかったし、風格ある菊五郎もとてもよかった。「和歌」という小道具が嬉しい一幕。

次の柳澤の邸宅で吉原の趣向を見せるところでは、本当にやってしまったのかと、舞台を見ると「ようやるなあ」とただただ感心しきり。先ほどの4人の近習と同じように、4人の家臣がそれぞれの扮装をしている幕開けにニンマリだった。菅原主水のくだりは冗長ではないかなと思ったけど、柳澤の抜け目のなさを見せるのと最後の家老との渡り台詞で締めるのを導き出したという点でよかったのかなあとも思う。お殿さまの周りには真面目に将来を考えて不興を買うのも厭わずに進言する者もいる。そんな世間描写が面白いのかもしれない。あとの井伊掃部頭の大物ぶりが引き立つという気もする。それから、吉原ごっこをするというくだりでまっさきに頭に浮かぶのは、落語の『二階ぞめき』。愛用の『増補 落語事典』(青蛙房)によると、『二階ぞめき』の原話は延享4年江戸版『軽口花咲顔』に載っている「二階の遊興」とのこと。そんな落語との類推が嬉しかった。

その遊興の合間に初めて観客は「世話」の世界を見ることになる。雷が鳴って下座で太鼓があって廻り舞台で柳橋の船宿。雷雨と蚊帳という、川沿いの夏の季節感たっぷり。近所の女房、萬次郎が長火鉢に鉄瓶をのせて団扇であおいでいる。雷さわぎで火が消えてしまったのだ。というような生活描写でさっそく「世話」のよろこびが満ちてきた。時蔵がとてもあだっぽくてよかった。菊之助は若旦那然としていて、操られている人、という感じが出ているのが面白かった。紅葉が美しい吹上御茶屋の場では、柳澤に女を与えられたことで綱吉が先程よりは自分の意思を持って強くなっているサマが面白かった。菊五郎の井伊掃部頭は老人ぶりが際立っていて愛嬌があるのはいいのだけれど、とても頭の切れる恐い人で命をかけるのも厭わない気骨のある武士という面が全然感じられない。でも、そんなチグハグなところもそれはそれで面白いのかも。公演プログラムの補綴のことばにある通りに、九代目團十郎の本役は井伊掃部頭の描写にあったに違いなく、そんな芸の系譜というか、こういう役がぴったりだったという九代目團十郎の肚芸に思いを馳せるという点ではとても有意義だった。明治の歌舞伎のことを考えた。

そして、三間右近邸宅となる。黙阿弥の脚本を読んでいてとても胸がいっぱいだったくだり。竹本が入るので、単にいつものわたしの義太夫好きが出ただけなのかもしれないけれども、竹本入りの黙阿弥、というのが好きだ。『加賀見山再岩藤』の鳥井又助の場の作劇を思い出したりも。この場では母、悩む右近、美しいおしづ、訪ねてくる右近の朋輩と、それぞれの人物描写がとても好きだった。原作ではおしづの父が出てきて、愛嬌はあるが貧乏暮しですっかり卑しくなってしまっている老人。7歳から奉公をしているというおしづは、そんな父親の娘だけど、まっすぐに賢く美しく生きている。お茶碗に蠅が入っていて母激怒、おしず死を覚悟、それを見て自分の運命を悟る右近、といったくだりもたしかに冗長だったのでカットされているのは仕方がない。でも、脚本を読んだときは、そんなちょっとした偶然で運命を悟ってしまうという描写がとても巧いものだと思って、人生というのを感じたのだった。父より伝授の茶道の芸で出世したけれど、その芸で結局は散ってしまうのだなあと無常感しきり。自分の出世のために吉原の趣向を実現してまで頑張っている柳澤には、まさか右近が死を選ぶなんて想像もできなかったに違いない。右近に求婚されて「分」をわきまえて断わるおしづさんが美しく、断りながらも内心は嬉しかったというおしづの描写も恋する女子いう感じで胸にしみるものがあった。菊之助がとてもかわいらしくて、その好演がとてもよかった。忠義で悩む息子とそれを見る母、を見て、なんとはなしに盛綱を思い出した。それから、冬の閑をたのしむ茶の湯、のくだりの竹本の「冬の夜の鐘の音沈む雨催い、松吹く風もさらさらと降るはみぞれか霰釜、閑を楽しむ風韻の炉辺に右近がたつる茶の泡と消えゆく身をかこち」という文句がしみじみいい! と、あとで脚本を読み返したりも。幕開けの「和歌」と同じように、「茶道」という小道具が嬉しい一幕だった。

と、三間右近のくだりは黙阿弥の脚本そのものを思い出して、しみじみだった。このあとは大急ぎで結末をつけた、という感じだったけれど、御台所が綱吉を刺すところでは急に新歌舞伎ふう演出、あとの柳澤の野望がくじかれるところは急に仁木弾正ふう、こちらはろうそくが登場したりと理屈なしの歌舞伎ムードがあふれているのはよかった。幕開けの春夏秋冬の4人の近習が再登場していて嬉しかった。……と、ここまで4時間以上、いやあ長かったなあと、最後は急に木場の立ち廻りで急に改心する夫婦、なんだかよくわからないけれども、いかにも菊五郎に似合っている場面ではあった。よい「追い出し」にはなったと思う。

菊五郎の4役奮闘、菊之助時蔵田之助とそれぞれに活躍していて、俳優を見るたのしみも満喫。とりわけ菊之助が厚みが出てきて印象的だった。松緑も一役だけではなくて、たとえば菊之助の若旦那の役とかを松緑が演じてもよかったとも思った。びしっと固まった脇もよくて、劇団全体の雰囲気を見るたのしみもあった。

……などなど、わたしの芝居日記も冗長になってしまって、それこそなんだかよくわからぬという感じだけれども、黙阿弥の原作を読んで舞台を見る、というのはとてもいい経験だった。決して名作ではないけれども、明治に入って「活歴」を本格化させる前の黙阿弥と團十郎、ということを心に刻むことができたというのはたいへん有意義だった。黙阿弥のこと、明治の歌舞伎のことを少しずつ勉強したいものだ。その絶好の機会になった。やっぱり何ごとも経験だなあと思う。見てよかったことだけはたしか。活歴を経て、明治30年の『忠臣蔵』に至るというわけで、本を読むだけではなく今回のように舞台を見ることで、歌舞伎史が実感として徐々にわかってくるのだと思う。