神保町にて

ひさしぶりに東京堂のふくろう店に足を踏み入れて、いつもまっさきにチェックする特価本コーナーを眺めていたら、岡鹿之助の本があるので大感激。ガバッと手にとって値段を見ると、看板に偽りなしのお買い得、この本は図書館で借りて読了済みで、すみのすみまで大好きだった。前々から定価でも買いたいと思っていたのをつい機会を逸していたので、こんなに嬉しいことはない。ホクホクと買った。

岡鹿之助は実は岡鬼太郎の息子だと知ったあとでひときわ注目するようになった。この『ひたすら造形のことばで』の冒頭に、1927年年末の巴里からの両親宛て書簡が掲載されている。このごろ、わたしはますます岡鬼太郎という人が好きなのだけれども、やっぱり「この父にして」だなあと、岡鹿之助を見るとしみじみ思う。先日買ったばかりの、安藤鶴夫の『随筆舞台帖』での岡鬼太郎も好きだった。岡鹿之助の回想には「みっともないから」といってすぐに直す、言葉にうるさい父、のくだりがある。

岡鹿之助の著書は『フランスの画家たち』を例によってささま書店で数百円で買ったのが最初、ビニールカバー付きの著者自装で手に取っただけで嬉しきなるような素敵な本なのだけれども、いざ読んでみると、その文章もとても素敵だった。日本人の油絵画家として、自身のマティエールを探究していく過程を綴った文章のスーッとした感触はその絵画を見ているときのそれとまったくおんなじで、絵に対峙する、ということの深淵のようなものが、実作者でなくてもグッとくるものがある。大正末にパリへ留学してそのまま十数年滞在、第二次大戦を期に帰国、パリでは渡仏1年目に藤田嗣治と交わっている。そのパリ時代に、ラヴェルドビュッシーの近代フランス音楽に親しみ、マティスやドラン、ボナール、ルソーなどなど、たくさんのフランス絵画を間近に見ている。ひとりの画家の目を通した、美術エッセイ、音楽エッセイとしてもとても面白いし、えてして画家のエッセイ、洋画家のエッセイは留学していることで「巴里本」という体裁も帯びているものだけれども、そんな「巴里本」としても秀逸な1冊だと思う。たとえば、ボナールの「色の対立」をドビュッシーの不協和音にたとえているところとか、絵画と音楽の類推のあたりなどワクワクする箇所がたくさん。そして、なによりも岡鹿之助の文章そのものが好きだ。パリ本というだけではなく、戦後のくだりでは、神奈川県立近代美術館土方定一が登場したりするのも嬉しい。

  • 雑誌「みすず」2005年1・2月合併号《読書アンケート特集》


去年にずいぶんたのしんだ「みすず」の読書アンケートが今年も出ている! と、岩波ブックセンターで見つけて、まっさきに買った。今年の表紙は鬼海弘雄、中身もたっぷりだし表紙も美しい、300円でずいぶん堪能だなあと、去年とおなじよろこびにひたった。「みすず」の読書アンケートは2004年に刊行された本ではなくて、2004年に「読んだ本」となっているので、すでに読んでいるのも登場すれば古典的名著も登場するということにもなって、なにかと嬉しいことが多い。

ページを繰ってさっそく、わたしも2004年にやっと読んだ、出口裕弘著『辰野隆――日仏の円形劇場』が登場していて嬉しい。辰野、堀口大学西脇順三郎といったような《この頃の日本の金持ちの「道楽息子」が、日本のモダニズムを生む土壌を作った》というくだりに興味津々。ドイツ文学者の三光長治氏が、『野上弥生子日記』と上村以和於著『時代のなかの歌舞伎』を一緒に挙げてらして、なんだか勝手に親近感。あ、武藤康史さんが三木竹二の『観劇偶評』を挙げている、《書誌学の勝利。編者に敬礼。舞台をここまで活写しうる文体があったとは。》とのこと。わたしもまさしく「編者に敬礼」と思う。渡辺保氏といえば吉田加南子さんが『黙阿弥の明治維新』を挙げているのが嬉しかった。《近代、ということは勿論ですが、言葉の芸、あるいは芸としての言葉について教えられました。》とある。山田稔さんの項を見て、トルストイの『幼年時代』(岩波文庫)を今すぐに読みたくなった。《読むきっかけを与えてくれた杉本秀太郎『青い兎』(岩波書店)に感謝せねばなるまい。》とあるので『青い兎』も読みたい。シモーヌ・ヴェイユと重ねてチェーホフを読むという、渡辺聡子著『チェーホフの世界』(人文書院)も要チェック! あと、どなたかのくだりで、牧野信一のことがさらに気になったりも。