続・歌舞伎座の『野崎村』、犬も歩けば戸板見立て絵

芝居見物

  • 二月大歌舞伎『野崎村』/ 歌舞伎座・夜の部一幕見

イソイソと今週も歌舞伎座の幕見席に寄り道。『野崎村』に並ぶ行列の数はパッと見た目分量では先週の5倍くらい、倍率ドンさらに倍、とあまりの人数の多さにびっくり、というのはウソで、これでやっと通常通りといったところ。先週が少な過ぎたのだ。で、中に入ってみると、やっぱりまだまだ余裕で空いていて、平日の幕見席のゆったり見物のよろこびを満喫。

二度目の『野崎村』見物なので、興奮しっぱなしの先週のわが身を反省し、見どころのようなものを心に刻んでおいて、要所要所でしっかと見ておこうという作戦にした。渡辺保の歌舞伎劇評(http://homepage1.nifty.com/tamotu/)を参考に、

    • 雀右衛門登場後の芝翫との芸風のまったく違う女形の競演
    • 「病づらめが」で久作がお染に気づいた、そのあとの引込み
    • 久作の異見のところの富十郎のセリフ
    • 異見のところ、やや下手でほとんど上手向きで芝居することで現在の主従関係が明確に
    • 異見の「コレコレ」の段取り
    • お光が二人に「死ぬる心でござんしょう」でハッとする久作
    • このあとの4人の役者の様子
    • 田之助が姿をあらわすところ

といったところを、頭のなかで箇条書きにして見ていったのだったが、先週よりは落ち着いて見物ができたことで、あらためてじっくりと『野崎村』が面白いなあとしみじみ思うことができた気がする。でもやっぱり、まだちょっと興奮し過ぎかも。

六代目菊五郎の型をやっているという芝翫のどのあたりが六代目なのかという細かいところはわたしにはようわからぬのだけれども、筋書のインタヴュウにある、前半と後半の陽と陰との対立、ということはなるほどなあと思った。前半のいかにも「娘」という感じのウキウキしたところと対照的な、後半の悟っているようでいて諦めきれないところもある微妙な描写が新劇ふうでありつつも歌舞伎の様式にも逸脱せず、歌舞伎を見つつも「現代人」の心情にも訴えてきて、という様子が共感の持って行き場たっぷりで、それが面白かった。芝翫のお光は、前半は迫る婚礼に浮き立つ娘さんで、「親のおかげ」のところでちょこっとお辞儀をするところが好きだなあと思った。仏壇の下から手鏡を取り出して、「気ばかりあせって」と身繕いをして、ハッと思い出したようにあたりを見まわして、ここで竹本が止まってシーンとなり、懐から懐紙を取り出して「眉かくし」、ここが芝翫にぴったりとマッチしていて、実にかわいらしい。鏡をもとにあった場所にしまって、なますづくり。チョキチョキチョキ、と指を切るくだりにもウキウキ。お染に対面したあとのいくつかの段取り、お染が渡した香箱を投げ出すところとか「かわいいッ」といつまでもウキウキだった。ツンとちょいと勝気でもある娘さんが芝翫にぴったりで、芝翫の『藤娘』が好きだったこととかを思い出したりもした。

久作と久松が登場して、お灸をすえるところは何度見ても(といっても2度目)、面白い。先週見たときは富十郎にばかり注目してしまったけれども、鴈治郎の久松がやっぱりなんとも絶妙で、お光と喧嘩したあとで、久作の肩にのせてあった手ぬぐいをふところにしまう仕草が、なんでもないようでいて、実にいいなあと思った。と、こういうなんでもないような所作が実にいい、というのが鴈治郎の久松に多々あって、二人が引込んだあと、お染と二人きりになって、病臥している老母がいる上手の障子を気遣いつつお染に近づいてゆくところなど、じんわりと身にしみこんでいて、クーッとなった。久作の異見のあと、手ぬぐいで涙をふいて、さっと懐にしまってセリフになるところなども、じんわりとしみわたってくる感じ。お染と久松が目で合図をして死ぬ覚悟を確認するところで、久作がふせっているので気づかない、という芝居のダンドリもうまいものだ。

お光が出家姿で登場すると切り髪になっているのだが、ザンバラ髪とやらを見てみたかった気がする。お光の出家姿を見てびっくりの久作、セリフのあと手にしている手ぬぐいを落として口にあてる、というダンドリにも注目であった。4人でバタバタと死ぬ死ぬを連発したあと、久作がお染の母のことを口にしたところで、田之助登場! というダンドリなどもいちいち無駄がない。渡辺保さんの劇評で、新旧の主従がはっきり、というくだりを心に刻んでいたので、久作とお常との主従関係というのがはっきりと見てとれて、これもゾクゾクと面白かった。お染が入ったことで開きっぱなしになっていた木戸は、後家が登場するまでは開いたまんまで、後家が中にはいるときに戸を閉める。この戸の開閉、ということも、なんでもないようでいて、なんだかとっても面白い。その後家の登場のときは、竹本はお休みで下座で琴の音が聞こえて、気品あるムードとなる。その場面がニンに合い過ぎな田之助なのだから、たまらない。久作と久松が下手にいて、後家とお染が上手という位置、「早咲きの梅」のくだりもセリフが補足されているのかくっきりと胸に染み込んできて、効果もパッチリ。二人が別々に帰る、というダンドリがすーっといい具合に見ているこちらに溶け込んできて、梅に見立てる、ということそのものもグッと心に残るものがあった。

とかなんとか、いちいち書いていたらキリがないのだけれども、舞台がまわったあとも面白いなあといつまでも興奮しっぱなし。お光が障子窓から顔を出すところがしんみりといい感触だった。駕篭かきが三味線とリズムを刻むところはたのしくてしょうがない。朗々とした義太夫が耳に心地よくて、それにしてもなんて見事な幕切れだと思う。花道が舟で、仮花道が駕篭、はじめはお光が舟の方にいて、久作は駕篭の方に立っている。やがて久作は舟の方に行き、ここでも主従関係はっきりといった感じで深くお辞儀をし、交代するようにお光は久松を見送り、やがて両者は背中合わせにぶつかり、お光は凧のかかっている白梅の木に向かって後向きになる。このあとの、鐘の音とウグイスの笛の効果がとてもよくて、鶯の声で上を向いた久作がよろけるダンドリなども、先の「早咲きの梅」と同様に、舞台効果と季節感とお芝居としての演出とが絶妙に調和していて、お光と久作が泣き合うくだりでは、いろいろあったけれども『野崎村』の劇としての魅力は、久作とお光への共感の持って行き場がいかに達成されているかによるのだなあと、絶好の幕切れなのだった。

……と、文章はいつもの通りにちっともまとまっていないけれども、『野崎村』再見はとても面白かった。と言いつつも、たまに歌舞伎で同じ舞台を再見するたびにいつも思うことは、再見すればするほどよくわからなくなるなあということで、それは今回も同じであった。歌舞伎はわからないことだらけだ。富岡多恵子著『西鶴の感情』の余韻にひたるべく、『二人椀久』もぜひとも見たいと思っているのだけれども、今回のところは、京橋図書館へ行かねばならぬので断念。イソイソと階段をくだっていたら、『二人椀久』に並ぶ行列はちょうど先週の『野崎村』とおなじあんばいだった。図書館では、国立劇場の上演資料集で『野崎村』を探して、無事に借りることができた。

今週も、歌舞伎座から自宅まで徒歩で帰宅。その途中のコーヒーショップで、上演資料集を見てみると、「演芸画報」に掲載の、藤沢清造が主宰していた「稽古歌舞伎会」の記事があるので大感激。藤沢清造の粘性がいかんなく発揮されている「稽古歌舞伎会」がわたしは大好きだ。『野崎村』は大正8年4月から9月まで連載されたのだそうで、そのしつこさが味わい深い。上演資料集には当然その一部しか収録がないので、「演芸画報」の本誌でコピーしたいものだと思う。岡鬼太郎が、仮花道と花道との視覚効果について語っているのを見て、野崎参りという風俗そのものに急にうっとりとなった。わたしが野崎参りということを知ったのは、歌舞伎座仁左衛門の『女殺油地獄』を見たときが最初(無知の涙)。当時、とりあえず広辞苑で「野崎参り」を引いたら、そのものズバリ近松の『女殺油地獄』が例文として挙がっているのを見て、感激したのをよく覚えている。

購入本

このところやたらとよく歩いている。「犬も歩けば」とはよく言ったもので、今まで知らなかったお店に遭遇したりするのもたのしいのだった。先週の歌舞伎座帰りの折に歩いた道はちとうら寂しかったので、今週はなるべく人通りの多いところをと、テクテクと歩いていった。すると、通りがかりにふと古本屋さんに遭遇。いわゆる新古書店という感じで、あまりそそられなかったのだけれども、せっかく通りかかったことだしと、なんとなく足を踏み入れてみると、文庫本に限ってはなかなかの品揃え。ざーっと眺めてさっそく、山藤さんの『世相あぶり出し』が2冊並んでいるのを見て、大喜び。

つい先日、id:kanetaku さんより、『世相あぶり出し 2』に掲載の戸板康二が登場する見立て絵を見せていただいたばかりで、その絶妙さに大笑いだった。さっそく探究本だーとさっそく手帳にメモしたのだったが、さっそく発見するとはなんとも嬉しい。はじめは戸板さんが登場する第2巻だけを買おうかなと思ってしまったのだけど、解説が野坂昭如であることだし、第1巻もせっかくの縁なので一緒に買った。で、あとで2冊を立て続けに繰って、2冊買ってよかったとしみじみ思ったのだった。いやあ、面白いなあ。

戸板康二が登場する見立て絵というのは、「推理作家文士劇 犬神家の一族」というもので、戸板さんはなんと松子役! ふつふつと嬉しい。古賀弁護士は松本清張で、寅之助は都筑道夫。…寅之助ってどんな役だったっけ。

と、そんなこんなで、戸板さんの似顔絵コレクションをしようと急に張り切っているところ。