1930年代の浅草に胸躍らせて週末。浅草オペラ展と上野松坂屋。

東武博物館のあと、松屋と浅草駅とが一体となった昭和6年竣工の東武ビルディングの建物観察を満喫して、頭のなかが「浅草昭和六年」一色になったところで一目散に帰宅して、まっさきに繰ったのは、堀切直人著『浅草』栞文庫(asin:4990170326)だった。




堀切直人『浅草』(栞文庫、2004年7月20日)。装釘:嶌田昭成。カバー絵:谷中安規(「少年画集2 桜」)。発売時にすぐさま書肆アクセスへ買いに走って以来、とびきりの愛読書。5年たった今でも手放せない、のみならず、ますます愛着たっぷり。震災から東京大空襲までの浅草を、たくさんの書物の「引用の織物」という趣向で綴る、《浅草という町についての評伝》。


「1930年・東京」に執着しつつ、古書展なり閲覧室なりで諸々の文献をまがりなりにも発掘するのを日頃の道楽にしているなかで、たまにふらりと『浅草』を繰るとそのたびに、堀切直人さんの書物を扱う手さばきの名人芸ぶりにクラクラと眩暈を覚えて、わたしもこんなふうに本を読んでいきたいといつもむやみやたらに嬉しくなって、そして、むやみやたらに本読みへの意欲(のようなもの)がフツフツと煮えたぎる。と同時に、浅草へ出かけるといつも読み返したくなってしまう、というふうに、書物の世界だけにとどまらない、町の雑踏が横溢しているのが堀切直人『浅草』のすばらしいところ。……というような次第で、東武ビルディングで「浅草昭和六年」気分が盛り上がって、吾妻橋の橋上でまたもや堀切直人著『浅草』を思い出して、こうしてはいられないと一目散に帰宅した次第。


そんなこんなで、帰宅後の室内で満を持して、堀切直人著『浅草』の「カジノ・フォーリー繁昌記」を読み返してみると、ああ、やっぱりしみじみすばらしい! とページを繰る指がとまらない。昭和4年7月、水族館で「カジノ・フォーリー」が誕生するも2か月で解散し、同年10月、「第二次カジノ・フォーリー」が誕生し、エノケンが座長格となる。同年12月に東京朝日新聞夕刊に連載の、川端康成『浅草紅團』を経て、カジノは昭和5年に全盛期を迎える。




川上澄生浅草公園カジノ・フォーリー》(昭和5年)、『新東京百景』より。



というような、1920年代から1930年代にかけての「浅草」を象徴するカジノ・フォーリーの、おなじみの流れを綴りつつも、堀切直人さんの『浅草』の嬉しいところは、獅子文六の名前がひょいと「引用の織物」のひとつとして登場するところ。獅子文六は、1925(大正14)年7月にパリから帰国している(渡仏は1922年3月)。パリの興行界をつぶさに見てきた文六先生による『巴里のミュジック・ホール』という文章は、カジノ・フォーリー前年の昭和3年に書かれたもの。ここで文六先生は、《パリで大人気のミュージック・ホールが今後十年以内に東京の興業界にセンセーションを起こすだろうと予測》している。堀切直人『浅草』の「カジノ・フォーリー繁昌記」では、この獅子文六『巴里のミュジック・ホール』が織り込まれ、《パリで一九二〇年(大正九年)以後に大人気となったミュージック・ホールは、昭和五年以後の浅草(日本のモンマルトル)には規模を縮小したかたちで、しかもレビュー劇場と名を変えて移入され定着した》というふうにして、浅草のカジノ・フォーリーが語られてゆく。その著者の手さばきがいつもながらに見事なのだった。そして、カジノ・フォーリーが誕生した昭和4年7月と同月の「新青年」に掲載された、獅子文六の『レビィユウ小題』と題した巴里見聞も登場。巴里から新青年文学座へと至る、戦前の獅子文六のありように興味津々の身としては、なにかと鼓舞される。と、堀切直人著『浅草』のあちらこちらでこんな感じの「鼓舞」がひそんでいる。読み返すとそのたびにいつも嬉しい。





岩田豊雄『脚のある巴里風景』(白水社、昭和6年7月5日)。挿絵:阿部金剛。口絵として阿部金剛によるカラー挿絵が6枚挿入されていて、眼福。持っているだけで嬉しい本。阿部金剛は1925年渡仏、1927年帰国。東郷青児とフランスで知り合い、1929年1月には紀伊國屋画廊で「東郷青児阿部金剛二人展」を開催。翌1930年、『シュルレアリズム絵画論』を刊行……というような、獅子文六と同様に、巴里帰りの人びとが彩った、1920年代から30年代にかけてのモダン都市文化といったものを思ううえでも、なにかと嬉しい本で、何年も前から大のお気に入り。





『脚のある巴里風景』は全ページに「脚」の挿絵がほどこされているという凝ったつくりで、チャーミングな造本に頬が緩む。獅子文六が本名の岩田豊雄名義で執筆している本は「演劇人」としての書物(『海軍』以外)ということで、これはレヴュー文献ということにしたい。堀切直人さんが『浅草』の「カジノ・フォーリー繁昌記」で織り込んだ『巴里のミュジック・ホール』と『レビィユウ小題』は、いずれもこの本に収録されている。写真は、ムーラン・ルージュのことを綴った『”赤風車”ペペ物語』の次の文章、「モンマルトルの散歩」の冒頭。《時代はモンパルナスへ移ってしまった。/古い風車の山から降りて、セエヌを渡って、ジャン・コクトオの故郷へ、祝福を垂れてしまった。/モンマルトルは古い、古い。非常に古い。》というのが、その書き出し。





岩田豊雄『脚のある巴里風景』所収の彩色画より、阿部金剛《モンパルナス風景》。獅子文六は、1930年11月から翌年5月まで、5年ぶりに巴里に滞在している。病気の妻マリー(1932年12月死去)を祖国に連れ帰るための渡欧だった。モンパルナスの「ラ・ロトンド」に関する小文が本書にある。獅子文六も1930年代初頭のラ・ロトンドの椅子に座ったのかな。本書の刊行は、帰国直後の昭和6年7月。獅子文六3度目の渡欧は昭和28年5月、エリザベス女王戴冠式現地取材の折。このとき、最初の妻マリーと暮らしたアパルトマンを娘夫婦とともに見に行ったという(牧村健一郎獅子文六の二つの昭和』朝日選書・2009年4月)。





とかなんとか、堀切直人著『浅草』の「カジノ・フォーリー繁昌記」をランランと読みふけって、あれこれと鼓舞されて部屋の本棚をゴソゴソと掘り起こして、書斎(と称する小部屋)の丸椅子に何冊もの本を積み上げて、悦に入る。深い考えもなく東武博物館へ出かけた日曜日の夕方、堀切直人『浅草』の「カジノ・フォーリー繁昌記」を読んで、獅子文六の次は、満を持して、寺島珠雄南天堂 松岡虎王麿の大正・昭和』皓星社asin:4774402680)。夕食後に読みふけって、明日は月曜日だというのに、すっかり宵っ張りになってしまった。いつ繰っても何度繰っても、素晴らしい。これも書肆アクセスで買った本だ(たしか)。




寺島珠雄南天堂 松岡虎王麿の大正・昭和』(皓星社、1999年9月16日)。装釘:三谷靭彦。寺島珠雄は本書校正中の1999年7月22日に他界。7月10日付けの「あとがき」が絶筆となった。本棚のこの本の隣りには、2001年4月発行の『月の輪書林古書目録十二 特集・寺島珠雄私記』が並んでいる。


堀切直人著『浅草』の「カジノ・フォーリー繁昌記」には、昭和5年にカジノ・フォーリーが脚光を浴びた要因として、《まず第一に、劇団のブレーンや台本作者として、数多くの文学青年が参加してきたことが挙げられるだろう》というくだりがあり、

 フランス帰りの画家・内海正性は、本郷白山上のレストラン南天堂に集るアナキスト系の文学者たちのパトロン的存在で、この内海の引きで南天堂グループのいくたりかが知恵袋としてカジノに積極的に関わった。当時、モダン趣味ではトップを切っていた雑誌「新青年」に訳載されたカミの「リーキー家の世界珍探検」を翻案して斬新なナンセンス劇の台本を書いていた水守三郎は、このグループの一員であった。また、「五十里幸太郎」はカジノ・フォーリーの経営の相談に与っていたし『赤と黒』の最終号に『シユマイ』を寄せた溝口稠は本来は画家だったのが一座のマネージャーをするまでかかわり、終生大杉栄のブロンズ像を机辺に置いた静物画家の牧野四子吉もまた舞台美術に手を貸した一時期がある」(寺島珠雄「カジノとタルホ」)。

というふうに、寺島珠雄の引用がされているのだった(この「カジノとタルホ」の初出は1994年発行の「現代詩神戸」)。と、このくだりをひさしぶりに目にして、それだけでジーンと胸がいっぱい。


そんなこんなで、寺島珠雄の『南天堂』をひさびさに読み返す日曜日の夜。「第二十五章 移り行く <昭和ヒトケタ>」にある、松岡虎王麿南天堂をなんとか維持しながら九段中坂の印刷会社・京華社に勤めていた昭和3年から「南天堂の看板をわが手に持ちこたえていた」時期と著者がみなす昭和5年12月までの年月、同時代の浅草のカジノ・フォーリーを思って、胸が詰まって仕方がないのだった。

 エノケン榎本健一)中心に座組みを新しくした第二次カジノ・フォーリー旗揚げ。これには虎王麿の友人で画家の内海正性と弟の内海行貫が経営に乗り出していた。内海兄弟は、自分の家作に入っている溝口稠を一座の支配人兼美術担当に、五十里幸太郎を速水純の筆名で文芸部に入れたほか、牧野四十吉にも美術の助っ人を頼んでいた。虎王麿と内海の共通の交友が、まとめて内海の新事業カジノ・フォーリーに動員された形だが、虎王麿にはそれをさびしがる余裕[ゆとり]はなかったろう。
 カジノ以前、浅草オペラの時代の話を一つ挿入しておこう。現在の自由律短歌界の最長老に穂曾谷秀雄がいる。明治41・一九〇八年生まれで、その近い親戚に帝劇第一期生のダンサー・沢モリノがいた。沢モリノは浅草オペラ史に名をとどめる花形である。そんな沢モリノをからめて穂曾谷が書いている。
 ――少年の頃、叔母沢モリノが浅草玉木座出演中の楽屋で、菊田一夫サトウハチローらとゴロゴロしていた青年のひとりが、わたしにラムネをおごってくれた。それが矢橋丈吉であった……
 この文章は矢橋没後五年の追悼で、穂曾谷の散文集『たちばなし』(91年工房エイト)に入っている。穂曾谷は南天堂に来たのではないが、この話にはいかにも南天堂も『マヴォ』も浅草オペラも渾然としているので紹介した。


寺島珠雄南天堂 松岡虎王麿の大正・昭和』-「第二十五章 移り行く昭和 <ヒトケタ>」(p386)より】

ここに登場の穂曾谷秀雄は、昭和10年代に明石書房を経営していた細谷秀雄。野口冨士男を精読するようになって、昭和15年12月に結成され、翌年始動した文学グループ「青年芸術派」(メンバーは野口冨士男十返肇・井上立士・牧屋善三・南川潤・田宮虎彦青山光二・船山馨の計8名)周辺を緩慢に追うようになった。「青年芸術派」のデビュウとなった『青年芸術派・新作短篇集』(昭和16年4月5日発行)の版元として、初めて明石書房の名前が心に刻まれていたところで、高橋輝次さんの『古本が古本を呼ぶ』(青弓社、2002年5月)を繰っていたら、同書に収録の「古きよき時代の編集者と文士たち」で、車谷弘の小説集『算盤の歌』(明石書房、昭和17年8月17日)と『草の葉日記』(京屋出版社、昭和21年8月)の存在を知り、2冊とも版元がたいへん興味深いなあと、それぞれの版元と車谷弘とどういうつながりがあるのか非常に気になるなあと、明石書房の名を再び心に刻んでいたら、高橋さんの本に続いて収録の、「ある出版人の軌跡――明石書房と青年芸術派」を目の当たりにして「おっ」と大興奮、穂曾谷秀雄著『たちばなし』のことを知って、こうしてはいられないとあわてて取り寄せた……のは、ずいぶん前のことだけれども、寺島珠雄著『南天堂』に登場していたのをすっかり忘れていたので、ワオ! とびっくり。




穂曽谷秀雄『たちばなし』(工房エイト、平成3年12月14日)の本体(題箋を貼った筒状のケースがついている)。装幀:松本卯吉、扉絵:石田圭吾、似顔:中川かず、題字:著者。あとがきによると、美術公論社発行の月刊誌「美の手帖」のコラム欄に掲載した文章を1冊にまとめたもので、著者いわく「三流出版屋放浪記」。『月の輪書林古書目録十二 特集・寺島珠雄私記』(2001年4月発行)に、穂曽谷秀雄著『たちばなし』は辻潤文献の合間に並んでいる(一〇六五五番)。



明石書房が『青年芸術派・新作短篇集1』の版元になったのは、「青年芸術派」のメンバーの牧屋善三(岡田三郎の弟、本名は岡田五郎)が勤めていたのが縁だったのだけれども、その牧屋善三は浅草のレヴュウ小屋の文芸部に勤めた経歴がある。堀切直人著『浅草』の後半では、《エノケンが去り、レビュー熱が下火になった。山の手のインテリも、日本橋、銀座あたりの住人も足を向けるのをやめ、ジャーナリズムもそっぽを向いた》としつつも、《やはり魅力的な町であることを失わない》という「昭和十年代の浅草」が綴られている。わたしは昭和10年代の浅草といえば、牧屋善三のことをちょっとばかし追究したいなというところ。牧屋善三が明石書房に勤めた縁も「浅草」にあったのかなということに思いが及ぶのだった。寺島珠雄著『南天堂』をひさびさに繰って、カジノ・フォーリーから思いがけず、戦前の野口冨士男周辺へ誘われて、すっかり宵っ張りの日曜日の夜。いろいろな書物や人物が、戦前浅草を媒介に交錯する、その交錯具合に興奮なのだった。





東武博物館帰りの日曜日の夕方に書斎(と称する小部屋)の丸椅子に積み上げた本を、毎日次から次へと繰って一週間が過ぎて、また次なる週末がやってきた。堀切直人著『浅草』に鼓舞されて、本棚からひさびさにとり出した本を順繰りに繰ってゆくと、「浅草昭和六年」から心は「浅草オペラ」の時代へと向かって、最後は堀切直人『浅草 大正篇』右文書院(asin:4842100540)を取り出して、ひさびさに読み返すこととなり、結局は堀切直人「浅草」四部作のまわりをぐるぐるとまわって、次なる週末がやってきたというあんばい。





サトウハチロー『浅草』(素人社、昭和6年5月1日)の本体。装釘:吉邨二郎。堀切直人「カジノ・フオリー繁昌記」に紹介の、サトウ・ハチローカジノ・フォーリー裸史』はこの本に掲載されている。同時代の現場からの臨場感あふれる一篇は格別。





その、サトウ・ハチロー『カジノ・フオリー裸史』の挿絵は山名文夫によるもの。

 いつまでつづくかカジノ・フオリー!!
 これは大問題である。
 僕はつづくと思ふ。世の中が、せちからくなればなるほど、ナアーンだといふやうなほんとに馬鹿馬鹿しいものが欲しくなつてくるのである。僕だつてマルクスだ、イデオロギーだ、スローガンだ、デモだなんて、おどかされてゐるよりも、
『ああ足と足の間のテツペンよ』
 てな詩でも鼻聲でうたつてゐる方がいい氣持ちである。カジノフオリーは要するに僕の詩みたいなものだ。馬鹿々々しいが毒にもならない。勿論藥に初めからならない。僕の詩なんかなくつたていいが、あればやつぱり人々が、
『知らないうちが花なのよ』
 と歌つてくれる。
  カジノ・フオリーよほろびるな!!
  サトウハチローよ 健在なれ!!



サトウ・ハチロー『僕の東京地図』(有恒社、昭和11年8月1日)。装釘・挿絵:横山隆一。今年1月の浅草松屋の古本市で買った本を、昭和6年発行の『浅草』のすぐあとに、数カ月ぶりに読み返すと、「僕の東京地図」が「東京朝日新聞」に連載されていた昭和11年時点での、カジノ・フォーリーから始まる浅草の軽演劇回想が絶妙で、これまたウキウキだった。





映画化された『僕の東京地図』(昭和11年9月封切・日活多摩川)の広告、「キネマ旬報」より(号数をメモし損ねた)。聖橋に立つ面々、背後にニコライ堂とともに写るお茶の水駅のモダーンな駅舎が嬉しい。『僕の東京地図』の「銀座縦横記」に、「日活の根岸所長」に銀座の喫茶店「耕一路」にて、「どうだおれのところの仕事を手伝ってくれんか」と誘われて、受託するくだりがある。以前、読んだときは軽く流してしまったけれども、今回読み返してみると、この根岸寛一登場のくだりにいたく心がひきつけられた。





というわけで、かねてよりのとびきりの愛読書、岩崎昶『根岸寛一』(根岸寛一伝刊行会、1969年4月21日)をひさびさに読み返したのもなんともなんとも格別なことだった。ここで描かれる根岸寛一のみにならず、これを書いた岩崎昶その人にもたいへん惹かれるものがある。とにかくもたいへんな名著。さらに、右文書院の『柳田泉の文学遺産』を手にして以来、柳田泉と同年の「明治27年生まれ・人物誌」といったものにとりつかれているので(福原麟太郎徳川夢声、水木京太、竹内勝太郎、田中冬二、……以下略)、根岸寛一も1894年生まれだ! と興奮。ますます「1894年生まれ・人物誌」への情熱が煮えたぎったりもした。 





堀切直人『浅草 大正篇』(右文書院、2005年7月20日)。装釘:古舘明廣。カバー絵は織田一磨《東京風景》のうち「十二階」(大正5年2月)。明治23年に六区内に洋風建築のパノラマ館凌雲閣、すなわち「十二階」の登場は、それまでの仮設的な興行建築が立ち並んでいた六区の恒久化のきっかけとなった。そして明治30年、防火建築が義務化されたことで六区の外観が変化、明治30(1897)年は活動写真が輸入された年でもある……というあたりからはじまる、「浅草 大正篇」。ひさびさに読み返して、今度は宇野浩二を読み返したくてたまらくなって、次週へ続くのだった。




土曜日の昼下がり、銀座線にのって意気揚々と、下町風俗資料館http://www.taitocity.net/taito/shitamachi/)へ出かけて、初日早々に、《浅草オペラと昭和の芸能展》を見物。なんという絶好のタイミング。いろいろと本を繰ったあとだったので、共感たっぷりにおのおのの展示物を凝視することができて、たいへんたのしかった。大正9年の金龍館の『ボッカチオ』の折の写真、田谷力三のとなりには高田保が! と、頭のなかは一気に、高田保著『青春虚実』(創元社、昭和26年12月)。わたしにとっては「浅草」といえば高田保だー! とひとりでジーンと熱くなる。そうそう、わたしの本棚の『青春虚実』は、竹中労『日本映画縦断1 傾向映画の時代』のとなりに並んでいるのだった。『日本映画縦断』を読みふけった日々を思い、ジーンと胸が熱くなる(頭のなかはいつまでも「歌はトチチリチン♪」が流れてとまらない)。


展覧会は「田谷力三と俳優たちの物語」というサブタイトルなのだけれども、なんとはなしに石井漠を思い出しつつ歩を進めていたら、まさしく「出たー!」というふうにして、昭和9年5月12日の日比谷公会堂における「石井漠舞踊研究所」の公演チラシが展示してあって、激しく物欲が刺激される。昭和初期浅草といえば、サトウ・ハチローの文章でも印象的に登場していた二村定一もいつもながらに琴線に触れるのだった。昭和4年の『都会交響楽』! ……云々と、全般的には「浅草オペラ」そのものというよりも「浅草オペラ」から派生したいろいろなこと、軽演劇あれこれ、戦前映画あれこれ、堀田金星が秋月正夫と名を変えて参加した当時の新国劇のこと、などなど、1920年代から30年代に至るいろいろなことにクラクラ。昭和5年当時の「カジノ・フォーリー」のプログラムにもうっとりと凝視、この一週間の本読みあれこれを思い出す極上の一瞬だった。



と、小規模な展覧会だけれども、ここまで興奮できれば、大満足。ホクホクと会場をあとにする、その前に、売店で売っている冊子類を物色していたら、すばらしい資料を発見して、ワオ! と大興奮、すぐさま購入だった(1000円)。




『写真展 下町の記録 アマチュアカメラマン加藤益五郎が写した風景』(台東区下町風俗資料館、平成19年9月15日)。加藤益五郎は明治33(1900)年に下谷竹町に生れて、昭和52年に没するまで終生この地に暮らした資産家の二代目。カメラは震災前に入手していたと推測され、残っている最古の写真は震災直後の大正12年秋撮影の写真。カメラに没頭したのは昭和8年頃までで、それ以降の写真は残されていない。であるので、その撮影はそのまんま、絶好の戦前昭和の東京資料! なのだった。田沼武能が巻頭に寄せた文章に、

東京の下町には商人や職人たちが多く住んでおり、とりわけそこに住む旦那衆は新しもの好きの趣味人が多くいました。そんな下町的性格を受け継いでか、大正、昭和初期には、木村伊兵衛や濱谷浩、桑原甲子雄などの下町生まれの有名写真家が多く出現しています。今回写真展を開く加藤益五郎は、木村伊兵衛より1歳上の1900年に生れており、2人のプロとアマチュアにまつわる経歴が対称的で興味深いものがあります。

という一節がある。





同図録より、《89 第3回化学工業博覧会》(昭和6年)。明治10年の第1回内国勧業博覧会開催以来、上野公園ではさまざまな博覧会が催された。この写真は、昭和6年3月20日から4月10日まで開催の「第3回化学工業博覧会」における明治製菓コーナー。戦前明治製菓資料があらたに見つかって極私的に狂喜乱舞だった。同時期の宣伝誌「スヰート」にもこの博覧会の記事があるにちがいない。あかぬけないディスプレイとあかぬけない「キャンペンガール」に時代を感じる。次のページには、「明治ミルクキャラメル」と「明治ミルクチョコレイト」、「明治チョコレートキャラメル」の自動販売機の写真がある(チョコレート10銭、キャラメル8銭)。





震災後の六区の写真がすばらしい。とりわけ、このカジノ・フォーリーの写真に感涙、《29 浅草水族館演芸場前》(昭和5年頃)。加藤益五郎の被写体はそのほとんどが町の人びと。 





昭和4年に新築開場した上野広小路松坂屋の屋上でもたくさんの御婦人の姿が。後方に写る建築がいかにもまあたらしい。



展覧会がおもしろかった上に、あらたな「モダン東京」資料を入手できて、本日はなんたるよき日ぞやとホクホクと下町風俗資料館を出る。家に帰る前に、上野松坂屋7階の「銀サロン」(すっかりお気に入り)でコーヒーを飲んで、ちょいとひと休み。買ったばかりの図録『写真展 下町の記録』を何度も何度も眺めて、どこまでも尽きないものがあった。これから折に触れ、細部観察にいそしみたい。展覧会でちょうだいした、「浅草オペラ」の年表(たいへん充実)を眺めて、あれこれ思いついて、興奮はまだまだ消えそうにない。いろいろと自分なりに整理していきたいなとメラメラと燃える。窓のそとは、そろそろ夕刻の空。このところすっかり日没が早くなった。



「銀サロン」のあとは、いつも7階から階段をくだるのがおきまり。上野松坂屋は全体的にはだいぶ改修がほどこされているけれども、エレベーターと階段は、昭和4年の竣工当時のモダン都市建築の名残が色濃く残っている(ような気がする)。






浅草松屋と比べると、上野松坂屋の階段はだいぶゴージャス。






そして、上野松坂屋でいつもウキウキなのは、エレベーター。時計の針のような古風なメモリはいまでも健在。たいへんかわいらしい「上り下り」の電燈は、今回の観察で初めて存在に気づいた。





銀座線の上野広小路駅も、昭和初期の名残りが多分に残っていて、ホームで電車を待っているだけでも、いつもそこはかとなく嬉しい。松坂屋の「銀サロン」で『写真展 下町の記憶』で、1920年だから30年代にかけての町並みを記録する写真の数々をながめた直後に、上野広小路のホームに立ってみると、いつもに増して、その昭和初期の名残が嬉しくて、何度か電車をやり過ごしつつ、細部を観察して悦に入る(挙動不審者)。






銀座線の上野広小路のホームに立つといつも、線路の真ん中の鉄筋が味わい深い。昭和2年の敷設当時のものがそのまま残っている。





一駅移動して上野駅へ行ってみる。あらためて観察して初めて気づいたのが、上野駅のホームには昭和2年の開通当時の壁面の煉瓦が一部保存されているということ。杉浦非水の当時のポスターとともに、ここだけ「地下鉄博物館」的な趣きなのだった。



帰宅後、愛読書の『別冊太陽54 モダン東京百景』(平凡社、1986年6月25日発行)を繰ってみると、





『別冊太陽54 モダン東京百景』(平凡社、1986年6月25日発行)、103ページ掲載の絵葉書写真。この当時の観光絵葉書の解説には、

地下鉄、昭和二年の暮日本にはじめての地下鉄が出来た頃は随分珍しがられたものだ。それは浅草から上野を経て万世橋に至る二里程の交通機関、この間の乗車賃十銭也。切符切りの手を要せず、金十銭也を改札口の処に投げ込めば、自然にギーとプラットホームに入れて呉れる。東京は地盤が弱いから今後そうたいした大発展を仕様とも思われないが、科学的、実用的の玩具としてお上りさん等にとっては興味ある珍しい存在だ。

とある。先ほど観察してきたばかりの現在の上野駅は、この絵葉書の写真で伺うことができる開通当時の地下鉄ホーム、線路の真ん中の鉄筋、天井部分、壁面の煉瓦が今もそのまんま残っているのが見てとれて(煉瓦はほんの一部だけど)、にんまり。





現在の上野駅ホームの壁面に一部保存されている煉瓦部分にパネルが掲げられている杉浦非水のポスター。すっかりおなじみのこのポスターだけれども、今回初めて、天井部分のストライプ状になった鉄筋に感興がそそられた。





もういちど、今回撮影の写真を眺めてみると、いままで地下鉄の線路の天井部分の鉄筋が描くストライプに目が行ったことがなかったなあということに気づいた。





前川千帆《地下鉄》(昭和6年)、版画集「新東京百景」より。





小泉癸巳男『版画東京百景』(講談社、昭和53年3月25日刊行)より、《第88景 春の地下鉄》(昭和12年3月作)。地下鉄の天井部分の鉄筋ストライプをいずれの画家もしっかりとその画面に印象的に描きこんでいる。創作版画の作家たちの感興をそそったのかなと思う。ちなみに、同書巻末の飯沢匡による本図版の解説は、

震災後すぐに東京唯一の上野から浅草まで走った地下鉄が、新橋まで延びたのを描いたものであろう。当時は興行街の浅草へ出向く人が多かったものである。つり革にバネがついていて、使用していないつり革は斜めになって上ってるところに注目してほしい。日本髪がいなくて、着物の模様が派手になってきているのは、風俗の変遷である。

とあり、フムフムとなった。